「私は世界一幸運だ。日本人に生まれたことが幸福だ」という考えを持たないと、いい知恵が出ない
本書は、松下幸之助が85歳のときに設立した松下政経塾が始まって間もなく、第1期生に対して行った6つの講話を収めたもの。
この講話録を読むと、幸之助のスケールの大きさがわかる。
第1期生といえば、野田佳彦元総理大臣もその一人。当時、野田さんはどんな思いでこれらの講話を聞いていたのだろうと思うと、興味が尽きない。現在、野田さんは無責任な政党に所属しているが、奮起して政権を担える責任政党へ変えてほしいものである。
松下政経塾は定員30名として募集を開始したが、それに対し907名の応募があった。しかし合格は23名。定員はあくまでも目安。数ありきではなく、塾の理念にかなう人材がいるかどうかで合格者を選んでいる。そのうえで幸之助はこう語っている。
「この塾の方針にかなう人がただ一人いればいいと思っていた」
つまり、たった一人でも塾の理念にかなう人材がいればこの塾を創設した価値があると。私財70億円を擲ってこの志である。並みのスケールではない。
よく知られているように、松下政経塾に常任の講師はいない。塾の原則は、自修自得。塾生が自ら問題意識をもち、社会に分け入って問いを発し、森羅万象から答えを探る。そういうことでしか本物の人材は育たないと幸之助は知っていたのだ。そう思い至ったのは、戦後の経済成長とともに学校の数は増えているが、人間の質は明らかに劣化しているということであった。これではなんのための教育かという危機感を抱いたという。
幸之助が唱えた無税国家構想にも言及している。いまとなっては非現実的な話となってしまったが、当時、本気で取り組めば、実現できたかもしれない。
「無税国家は一朝一夕にはいかないけれど、効率的な政治、行政をして毎年の国費を節約して、それを積み立てていけば、ある一定の年限の間には相当な蓄積ができる。それを運用してそこから果実を生む。それをもって国費にあてていく。そうすれば無税国家になる」
そう語っているのである。
ただ、会社経営と政治が根本的に異なるのは、政治家は任期満了とともに次の選挙があるということ。後継者が、積み立てられている基金を使って有権者に大盤振る舞いをすれば自分の評価は上がる。そこに民主主義政治の欠点がある。
幸之助はこうも語っている。
「盗人にも三分の理。泥棒がいなかったら警察はいらなくなる。裁判所もいらない。警視総監とか警察署長とかいう人はいかめしくやっているけど、この人たちは泥棒がおるので成り立っておるのや」
世の中に対する見方が複眼的で、射程が長い。
「いまは国際連合というものがあって、世界中が一体となっていて、無茶をしたらやられるから、どこも無意味な戦争はしないけれども、国際連合もできた当時からみると、だんだん弱体化しています。こういう世界情勢の変化が激しい時代に、日本が20年、30年先にこの憲法でやっていけるのかどうか」
昨今の世界情勢を見れば、幸之助の言ったことの意味がわかるだろう。
「諸君が選ばれて塾生になったことも、これはほんとうは諸君の力でもなければ、私の力でもない。われわれの目に見えない大きな力が働いて、この塾へお互いを引っ張り込んだのだ。この塾をつくったのは私の発意でつくったのだし、入塾したのは諸君の発意で入塾した。しかし、大きく見たら、自然の大きな運行の中にこの塾をつくらしめ、諸君を塾生たらしめたという力のあることを考えなくてはならない」
彼はなにものか大きな力(村上和雄はサムシング・グレートと言った)を常に感じていたにちがいない。
究極は、「運がいいと思いなさい。そう思ったらどんどん運が開けてくるから」という言葉であろう。それだけをみれば、平凡な言葉と受け取る人も多いにちがいない。しかし、彼の少年時代を知れば、その考え方がいかに超人的かわかる。
幸之助は明治27年、和歌山県に生まれた。小作人を雇っていた大きな地主の家だったが、幸之助が6歳の時、父親が米相場に手を出して失敗しすべての財産を失う。その後、幸之助は小学4年の途中で退学させられ、奉公に出される。そして両親と6人の兄姉が次々に亡くなり、なんと21歳で天涯孤独の身になってしまう。それだけではない。幸之助は当時「死の病」と恐れられていた肺結核に罹ってしまう。しかし、生活費を稼ぐため、仕事を休むことはできない。
そんなどん底を乗り越える原動力になったのが、前述した考え方ではないだろうか。結局、病は治癒しなかったものの進行もしなかった。そして起業し、世界的な会社へと成長させたのである。
松下幸之助、この人は宇宙の摂理の化身だったのではないかと思えてくる。
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