家康を子供扱いするほどの怪僧
日本の歴史には名僧・怪僧が百出する。そのなかでもひときわ特異な存在感を示すのが天海だ。徳川家康から家光まで、徳川幕府の黎明期を支えた大人物として天海の名は永遠に刻まれるだろう。
しかし、天海の生い立ちには謎が多い。享年も105歳から108歳まで諸説あるが、とんでもなく長生きしたことはまちがいない。平均寿命が40〜50歳という時代に100歳以上も生きたのである。現代でいえば130歳くらいになるかも。
初めて家康に会ったのはいつなのかについても諸説ある。江戸幕府が開府されてからという説が有力だが、関ケ原町歴史民俗資料館にある『関ヶ原合戦図屏風』には、南光坊天海と書かれた鎧兜姿の僧形がいる。
資料が少ないだけに、天海を描くのは難しく、おもしろい。なかでも三田誠広が描いた本書は興味深い。そこそこの厚さだが、読了してすぐに再読した。名だたる大名を呼び捨てにし、不遜で恐れを知らない天海像はじつに痛快である。
文中の一文を引用する。家康に江戸の未来図を渡した天海は、「これはおぬしが描いたのか」と問われ、こう答える。
「おれは絵が得意だ。ふだんは仏画を描いて心を静め、仏の領域に近づくことを修行としておるが、これはおれ自身が仏の目となって空の高みからこの地を見下ろしたものだ。ただの絵図面ではない。これは二十年後、三十年後の江戸を描いた。わかるか、これが江戸城だ」と家康に対してあたかも子供に教え諭すかのように説明し、さらに続ける。
「案ずるな、家康どの。おぬしには欣求浄土という夢がある。その夢に向かって辛抱強く歩んでいく一念の強さがある。秀吉は狡知に長けた輩だが、心の内にあるのは私利私欲だけだ。いずれあやつは家臣に見限られるだろう。秀吉の世は長くは続かぬ」
ことほどさように天海は自信満々だ。
拙著『紺碧の将』にも天海は重要人物として登場する。信長による比叡山焼き討ちから逃れた天海(当時は随風)は甲斐の武田信玄を頼り、しばらくその地で信玄や重臣たちに諸学を進講する(これはほぼ史実)。
時代がくだって関ケ原の戦いの直前、長い眠りから覚めた信玄と行動をともにし、家康の天下国家構想を認めた信玄によって家康に〝進呈〟されるというくだりになっている。もちろんこれはフィクションであるが、家康に仕えることになった天海は、その後、八面六臂の活躍をする。
翻って現代の世を見渡し、社会に影響力のある僧はいるだろうかと思案するのだが、105歳で没した大徳寺の立花大亀老師以来、名前が思い浮かばない。
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