揺れ動く純な若者の心と厄介な社会
禅宗の僧侶であり、芥川賞作家でもある玄侑宗久の最新長編作。
玄侑の作品はかなり読んでいる。東日本大震災をテーマにした短編集『光の山』(芸術選奨文部科学省受賞)はなかでも秀でていると思っていたが、本作はそれをも凌ぐ。
なんといっても著者の眼力の射程距離が伸縮自在だ。原発事故後の福島の現状と放射性物質に関する風評について饒舌に語るかと思えば、ウブな青年の揺れ動く心の裡を繊細に描く。公案について深い見識を披露するかと思えば、爽快なユーモアで読者の頬を緩ませる。天門開闔(老子)のごとく、この物語からさまざまなものが生み出される。
タイトルも秀逸だ。竹林精舎とは仏教の最初のお寺である。竹林は地味豊かで、根が絡み合っているから地震にも強い。当然、場のエネルギーも高いだろう。まさに修行にはうってつけの場所。しかし、放射性物質を集めやすいという事実もある。
現今、清風が吹き抜けるような竹林など、鎌倉の報国寺など特殊なところを除いて皆無といっていい。大半は竹やぶだ。竹林(竹やぶ)を物語の舞台とした著者の魂胆に感心する。
主人公は秋内圭という。仙台に住む両親を津波で失った。葬儀をしてくれた禅桂和尚に触発され出家を決意し、3年の修行の後、「宗圭」と名を改め、福島県の竹林寺の住職となる。檀家の少ない寂れた寺で、竹林とは名ばかりの、鬱蒼とした竹やぶに隣接する寺である。
宗圭には学生時代から親しくつきあっていた仲間が3人いる。やはり僧侶となって福島県に来た敬道、彼の妻となる裕美、そして宗圭が密かに想いを寄せている千香である。
宗圭以外の3人は放射能に関する知識が豊かで、専門的な議論を交わす。大学で応用生命科学を学んでいたという設定になっているが、著者の主張を代弁しているのだろう。放射能に関する世間の無知と誤解にあらためて気づかされる。余談だが、放射能が危険だと言いながら、人々は温泉に行き、飛行機に乗り、人間ドックに行く。そういう姿を見て、「ばっかじゃねぇの?」と思っていたが、科学的な裏づけを得た思いだ。
宗圭は敬道や裕美から「朴念仁」「唐変木」とからかわれ、背中を押される形でようやく千香に電話をし、会いたいと告げる。千香も密かに宗圭への思いを抱いていたからすぐに呼応し、竹林寺にやってくる。
新米僧侶である宗圭は、竹林寺の住職としてこれからどういう生活をおくるのだろうか。千香との恋は成就するにしても、異性との接触を禁じる釈迦の教えとどう折り合いをつけていくのだろう。狭い地域社会ならではの、親密でありながらも煩わしくもある檀家とどうつきあいを深めていくのだろう。先のことはだれにもわからないが、この作品を読み終えたあと、なぜか明るい未来が予感させられる。
27歳の宗圭はいまどきこんなに奥手の男がいるのかというくらい、ウブだ。
こんな妄想が描かれる。小川の岸辺でワンピースを着た千香がうずくまって沢蟹を捕まえようとする。水面に千香の白い下着がぼんやり映り、揺れ動いている。それを見る宗圭の心も揺れ動く。
このようなシーンは他にいくつもある。そのつど、彼の狂おしい葛藤が伝わってきて切なくなる。
ユーモアのセンスもいい。坐禅の途中、宗圭の前に釈尊が現れる。宗圭は無言で問う。
「お釈迦さま、なにゆえそれほど厳格に、異性との接触を禁じるのですか?」と。釈尊は答える。
「……エナジー、……エナジー、だだ漏れ」
これには声をあげて笑ってしまった。たしかにそうだ! と思わず膝頭を打った。
男女が抱き合っただけで互いが被爆するというのも初めて知った。なんと1万2000ベクレルもの放射線を浴びるというのだ。もっとも、無から有を生む行為なのだから当然といえば当然と納得した。
ラストシーンが秀逸だ。竹やぶの奥の巨大な岩の上でついにキスを交わし、寺に戻ったふたりは同じ部屋に布団を敷き、明かりを消す。
いつしか宗圭と自分が同化している。なんと余韻の残る描写であろうか。