魂を留めた書
死の前日、獄中で書き上げられた吉田松陰の遺書に、普遍の真理が書かれている。
安政6(1859)年10月26日、吉田松陰は処刑される前日、獄中で松下村塾の塾生にあてて書いた遺書であり、人生の総括でもある。全部で5000字に過ぎないが、没収されることも想定して、写しまで書いている。
その時、吉田松陰わずか30歳。死を目前にして文脈にはいささかの乱れもない。いったい、どのようにして心の平静を持っていたのだろう。
ヒントがある。穀物の収穫に例えた松陰の死生観(第8章)。潔さのなかに無念もにじんでいる。たとえ、幕末の知の巨人といえど、志なかばで処刑されるのは不本意だったろう。ちょっと長くなるが、一部を現代語訳で抜粋する。
──私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである。なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐっていとなまれるようなものではないのだ。しかしながら、人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することはできない。
どうだろう。自らを鼓舞するような内容でもあるが、行間に無念が滲んでいる。
松陰の体は滅んだが、その後、塾生の多くが明治維新の立て役者となって日本最大の危機を乗り切ることができた。やはり、吉田松陰は30歳で天寿をまっとうしたと見るべきだろう。
それにしても、松陰の学びたるや生半可ではない。死の数年前の3年間でおよそ1500冊の本を読み、45篇にのぼる著述を完成させている。しかも、多くの塾生に教える傍ら、である。生身の人間の仕業とは思えないが、幕末から明治にかけて、そのように勉学に励んだ者は少なくない。それぞれに国運を担っているという自負があったからだ。私利私欲や出世欲とはまったく別次元の世界で生きている人が、いかに途方もないエネルギーを発揮できるか、その奥義を垣間見た思いでもある。
本書を読むと、「学べ、学べ。小手先で生きるな」と叱咤されているような気になる。