命懸けの学びはどんな逆境も克服する
福澤諭吉、西郷隆盛、勝海舟、陸奥宗光、安岡正篤ら壮絶に学び続けた5人を取り上げている。彼らは全身全霊をこめて、勉強にいそしんだ。彼らを衝く動かしたものは、自らの双肩に日本の将来がかかっているという危機感と強烈なエリート意識である。
福沢諭吉の有名な言葉に、「天は天の上に人を造らず人の下に人を造らずとへり」があるが、これは人間みな平等ですよ、という意味ではない。その言葉に続いて、「されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや」とある。つまり、本来世の中は平等であるはずだが、現実にはいろいろな人がいる。優秀な人もいれば、どうしようもない人もいる、と福沢諭吉は言っているのだ。だから、このオレ様が命をかけて学び、この日本という国家を支えてやるぞ、と。実際、福沢諭吉の勉強は凄まじく、布団を敷いて夜具をかけて枕をして寝たことなどなかったという。勉強をしながら、どうしても眠くなったらそのまま机に突っ伏して眠るか、せいぜい床の間を枕がわりにして眠ったという。身体に与える負担は計り知れなかったはずだ。一晩だけでもぐっすりと眠りたかっただろう。それでも、彼は人並みに眠ることはしなかった。だからこその一万円札なのである。
資源がない国・日本がここまで発展したのは、言うまでもなく教育である。資源がなくても、体格で劣っていても、教育によって発展を遂げてきた。しかしながら、この事実を直視しない人たちが大勢いる。「ゆとり」は老後にとっておけばいいのに、子供たちに与えようとした(幸い、その愚に気づき、軌道修正がなされたが)。
私は「遊びと学びと仕事は皆同じ」と考え、つねづねそう言っている。勝手に「遊学働の三位一体」などとも名づけている。本書の5人が命懸けで学んだことはまぎれもない事実だと思うが、楽しみを伴っていたことも事実ではないか。厳しい学びではあったが、それをどこかで楽しんでいたからこそ長続きしたのだ。
これまで、私は多くの人に会った。ただすれ違った人もいれば(大半はそうだが)、会話を交わした人もいる。仕事で関わった人もいれば、取材で会った人もいる。その数、おそらく数万人に及ぶはずだ。
そういった出会いの綾のなかから、ほんのわずか、交誼を保ち続ける人がいる。
どういう人か? ひとことで言えば、学び続けている人である。学ぶことを放棄し、現状の自分に満足してしまった人、停滞することになんらの危機感を憶えない人はおのずと離れていく。
学ぶことによって人生の軌道を変え、日々を豊かにおくっている人が好きだ。
話が逸れたが、本書を読めば、真剣に学んでみようと思うはず。強烈な動機となることうけあいである。