すべての人間が抱える内なる異邦人
初めて読んだのは高校生のときだった。なんとも名状しがたい読後感だった。かつて味わったことのない不気味な違和感があるのに、妙な共感もある。なんだこれ? このわからなさは?
40年ほど時を隔てて再読した。世界の文学史に残る傑作であることを再認識すると同時に、学生時代に味わった〝不気味な違和感と妙な共感〟の正体がわかったような気がした。
この作品は人間の不条理を表していると言われるが、それ以上に人間誰しも内包している「異邦人性」を描いているのではないか。異邦人性とはこの場限りの造語だが、要するに社会と自分との間にある隔絶である。疎外感と言い換えてもいい。ひとりの人物と人間集団が水と油のごとく交わらない事態である。それに対する恐怖があるからこそ、人間はどこかに所属したくなるし、人と群れたくなる。ネットでもなんでもいいからつながりたくなる。
主人公のムルソーは社会との断絶をことさら意識し、懺悔を促す司祭など自分に差し伸べる(偽善の)手をすべてはらいのけ、自分への罵声に喜びを感じながら死刑執行に臨んだ。
カミュは、ムルソーに自身を投影している。よく知られているように、カミュは無神論者だった。西洋社会において、特にカトリックの国において無神論者として生きていくのは容易ならざることだ。まして時代は第2次世界大戦直後である。社会との断絶を感じながら共産党に入党するも、そこでも除名処分を受ける。彼はあまりに怜悧に過ぎるためか、宗教や共産主義のもつ自己矛盾に気づかないわけにはいかなかった。
そんな彼がムルソーのような人間を描くのは、けっして不思議なことではない。『存在の耐えられない軽さ』(ミラン・クンデラ)のトマシュは、かつて自分が書いた共産党批判を撤回すれば許すと当局から言われるが、それを拒否したがゆえに教職を追われ、田舎に飛ばされて謎の死を遂げる。『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク)のハンナは法廷で自分が文盲であることを証明すれば刑が大幅に軽減されることを知っていたが、あえてそれをせず終身刑に甘んじた。トマシュもハンナも社会(あるいは権力)との断絶と引き換えに、自らの矜持を守った。
しかし、ムルソーはもっと過激だ。無気力・無感動・無思考によって社会と手を切ったのである。
もちろん、そうすることがいいと著者が書いているわけではない。文学は道徳とはちがう。人間には多かれ少なかれ、そういう心があると言っているのだ。心の裡を冷静に見つめれば、そういう傾向を誰しももっていると。
「きょう、ママンが死んだ」という冒頭の一節によって、読者は瞬時にカミュの世界に引きずりこまれてしまう。母が死んだという養老院からの電報を受け取ったあと、ムルソーは養老院を訪れるが、涙ひとつ流さない。それどころか葬儀のあとガールフレンドと情事を楽しみ、友人のトラブルに巻き込まれてアラブ人を殺害してしまう。
法廷に引き出されたムルソーは、あの有名な言葉を放つ。「人を殺したのは太陽のせい」だと。
その後、ムルソーと彼を知る人たちとのやりとりが続く。もし、ムルソーがわずかでも自責の念を示せば、彼を非難していた人たちの怒りも鎮まったことだろう。しかし、ムルソーはそうしようとしない。むしろ、あえて相手が怒りに震えることを望んでいるかのような態度をとる。
ふと思う。近年多発している「誰でもいいから人を殺したかった」とうそぶく輩のことを。人間誰もが抱える内なる異邦人が、堅牢な殻を破り、もぞもぞと外界に這い出すようになったのかもしれない。
なんとも不気味な時代である。