昭和天皇の視点で描く、壮大な昭和史
全7巻の大著である。初巻「日露戦争と乃木希典の死」から「英国王室と関東大震災」「金融恐慌と血盟団事件」「二・二六事件」「日米交渉と開戦」「聖断」、そして最終巻の「独立回復」と続く。文字通り、昭和天皇の波乱の生涯を綴ったもので、そのまま克明な昭和史ともなっている。
著者の福田和也は明治以降の近代日本史を得意とし、石原莞爾、乃木希典、山下奉文、岸信介らの評伝も書いている。また、『作家の値うち』『総理の値うち』では現代日本の小説家の作品や歴代総理大臣を点数評価するという〝暴挙〟におよび、物議を醸した。
つくづく思う。天の配剤は絶妙だと。幕末、西欧列強の圧力に屈して開国してから、日本は国難の連続だった。世界の有色人種国家のほとんどが列強の植民地になっていたことでもわかるように、当時の世界は弱肉強食。わが国は腰に刀を差し、ちょんまげ姿で跋扈する侍がたくさんいる国なのだ。とうてい西洋の外交力と軍事力に抗う力はなった。そんな国難のおり、わが国は明治天皇、そして時をおいて昭和天皇という、稀有なスケールの天皇を戴くことができた。
先の大戦が終わるまで、明治憲法下において、天皇は陸海軍を統帥し、すべての統治権を握っていたが、実質的に政体は立憲君主制であり、政治的な判断ができる立場ではなかった。それでも、全幅の信頼を寄せることのできる天皇を戴いているという安心感は、国民の心の重心となった。
福田氏は昭和天皇を「彼(か)の人」と称し、三人称の形を取り入れながらも昭和天皇の視座を借り、昭和という激動の時代を描ききった。「文藝春秋」での連載開始から足かけ10年、昭和史を大胆に俯瞰した。
最終巻には、約600人の主要登場人物のリストが掲載されている。直接かどうかにかかわらず、昭和天皇は彼らと関わり、重責をまっとうされた。昭和天皇が生まれた直後の日露戦争から、太平洋戦争の敗戦に至るまでの40年余り、並の人間であれば、とうに人格が崩壊していたかもしれない。その強靭な精神力としたたかさには舌を巻くばかりだ。
ポツダム宣言受諾から東京裁判にいたるまで、天皇の戦争責任を問う声が強かった。法律上、責任はないとしても、道義上の責任は免れないと。64年におよぶ昭和の時代において、やむなく昭和天皇が下した政治的聖断は2回(二・二六事件の首謀者に対する措置とポツダム宣言受諾)のみだったが、それでも強硬に退位を論ずる者が多かった。そんな状況下、一貫して昭和天皇をかばい、守ったのがマッカーサー元帥だった。
占領統治責任者として日本に乗り込んできた当初、マッカーサーの心中にも天皇を弾劾する意向はあったという。しかし、昭和天皇と初めて接見したあと、彼の意向は180度変わった。昭和天皇はマッカーサーに会うなり、こう述べられた。
「将軍、戦争の遂行において、国民がなしたあらゆる政治的、軍事的決定、行動に関して、全責任を負う者として、貴下が代表する国々の判断にわが身を委ねるために、ここにやってきました」
歴史上にあるあまたの類例にてらし、昭和天皇は命乞いをするものとばかり思っていたマッカーサーの予想は完全に覆された。たった1回の接見で、彼は日本国民から神と崇められる天皇という存在の重みを察知し、天皇をないがしろにして日本国民を掌握することは絶対に不可能だと悟るのである。
サンフランシスコ講和条約が締結される直前も、左翼勢力を中心として天皇に退位を迫る人たちがいた。
独立を回復した5月3日の国民に向けての「おことば」の内容に関してのやりとりを記録した「昭和天皇は何を語ったのか 初公開『拝謁記』」というNHKの番組を見た。初代宮内庁長官・田島道治が遺した昭和天皇との拝謁記で、手帳6冊、ノート12冊に詳細に記されている。
それによれば、昭和天皇は「おことば」に反省という字を入れ、国民に謝罪したいと強く願っていた。しかし、時の総理大臣・吉田茂は削除を求めた。それをきっかけに天皇退位論が再燃することを恐れたからだ。
文言を練り直しては吉田から注文がつく。ついに、昭和天皇は吉田の要望を聞き入れた。象徴である以上、式典でのおことばといえど、意のままにできないということを察せられたのだ。
そうかと思えば、新しい憲法が発布されてすぐ、改憲を主張されていることもわかった。旧軍閥のようなものが復活するのは論外だが、軍備なくして独立国家として存在することはできないと思われていたのである。軍隊を文民統制したうえで防衛の備えをしなければいけないという現実的な思考をされていた。卓越したリアリズムというべきだろう。
東京裁判で死刑を宣告されていた7人の執行がなされたあと、昭和天皇は三谷侍従長にこう訊ねられた。
「私は退位したいと思うが、どう思うか」
それに対し、三谷はこう答えた。
「御上が、御苦痛だと思し召す方の道を選ばれてはいかがでしょう」
あえて苦難の道を勧め、昭和天皇はそれを受諾された。
その後の経緯は、読者諸兄の知る通りである。
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