たったひとつの存在を貫いて流れるひと筋の川
行間から静謐な哀切がにじみ出てくる、味わい深い作品だ。
『マクリーンの川』というより、映画『リバー・ランズ・スルー・イット』の原作といった方がわかりやすいだろう。モンタナ州西部にある、美しい山間の川ビッグ・ブラックフットを舞台に繰り広げる家族の物語である。
この作品を読むと(観ると)、洋の東西に関わりなく、宗教性と表裏一体となった自然に限りなく接近することによって、人間は浄化されるのだとわかる。牧師である父にとって、フライ・フィッシングは娯楽のひとつではなく、宗教行為のひとつ。だから、生き物を餌に使って魚を釣ることを厳然と拒み、フライ(疑似餌)をあたかも自然界に棲む虫のように水面すれすれのところを飛ぶように投げることを息子たちに課す。ふたりの息子にとって、教会で父(牧師)の話を聞くことと簡潔な文章を書くこと、そして本物の虫のようにフライを投げることは同義語である。
物語はふたりの息子の兄の方(マクリーン)が長じて、亡き弟ポールを父とともに回想するというシンプルな構成である。ポールはフィッシャーマンとしては天才的な能力をもつが、酒と賭け事と女に溺れ、若くして命を落とす。やがて訪れるであろう弟の破綻を予感しながらも、救いの手を差し伸べることのできなかったふたりは、最小限の言葉のなかに慙愧の念をにじませる。シカゴの大学に教授としての職を得たマクリーンは、弟にいっしょにシカゴへ行かないかと誘うが、ポールはさほど熟慮せず、ここに残ると答える。彼にとって、ビッグ・ブラックフットの川で鱒と相対するときだけが穏やかな時間なのだ。都会に出れば、さらに死期を早めたことだろう。
科学が進歩し、すべてが複雑で社会が変転するスピードが加速度的に増している現代において、この作品を読み意義は深い。なぜなら、ここには「シンプル・ライフとはいかなるものか」が描かれているからだ。簡潔であること、それがどれほどその人をその人らしくさせることか。
ラストが印象深い。
――そして最後には、すべての存在が溶解、融合して、たったひとつの究極の存在となり、ひと筋の川がそのたったひとつの存在を貫いて流れているのを意識する。
その一文からタイトル「A river runs through it.」はつけられている。はたして〝river〟とはなにを意味するのか、そして〝it〟(ひとつの存在)とはなにか。
完全ともいえる秩序の本源はなにか、そのなかにあって自分が存在するべき場所はどこか、そのためにどのような生き方をすればいいのか……。途方もなく深遠な問いを含む名文である。
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髙久の代表的著作
●「美しい日本のことば」
今回は、「夜振火」を紹介。夏の夜、川面に灯りをともすと光に吸いよせられるように魚が集まってきます。この灯火が「夜振火(よぶりび)」〜。続きは……。