絵画の本質を見通したバルザックの鋭利な芸術論
バルザックは典型的な長編作家だが、短編にも強力な作品がある。
その頂点に位置する作品が『知られざる傑作』だ。幸い、日本では岩波文庫版と水声社版の上製本の2種類が刊行されている。ただし、収められている作品は異なる。今回紹介する水声社版は〈絵画と狂気〉というテーマで選ばれた「鞠打つ猫の店」「財布」「知られざる傑作」「ピエール・グラスー」「海辺の悲劇」「柘榴屋敷」の6編。岩波文庫版は「砂漠の情熱」「ことづけ」「恐怖時代の一挿話」「ざくろ屋敷」「エル・ベルドゥゴ」「知られざる傑作」の6編である。
「知られざる傑作」は、文庫にして50ページにも満たない。だが、芸術の本質をこれほど深く、端的に表現した小説はほかに思い浮かばない。
時代は17世紀、舞台はパリ。主人公は架空の天才画家、フレンホーフェルで、ほかに、肖像画家として知られるフランス・ポルビュスと後に古典主義絵画として名声を得ることになる若き日のニコラ・プーサンという実在の人物が配されている。
物語は1612年も押し迫った暮れに始まる。新米画家プーサンは、宮廷画家として頭角を現しつつあったポルビュスを訪ねようと、彼の自宅にやって来た。いざドアをノックしようと思っていたところに老いた画家フレンホーフェルがやってくる。ポルビュスはフレンホーフェルとプーサンを招き入れる。
アトリエには、壁一面に多くのデッサンや習作が掛けられていた。それらに混じって、王妃マリー・ド・メディシスの注文によって制作された「エジプトの聖女マリア」があった。
フレンホーフェルはその作品を技術的には評価するが、この絵に欠けていることを滔々と語る。後述するが、バルザックはここでフレンホーフェルの言葉を借りて、自身の芸術論を展開するのである。このくだりは何度読んでも胸躍る。試しに、フレンホーフェルは「エジプトの聖女マリア」に少し筆を加える。すると、完成していたと思えた絵が、瞬時にして変貌する。その見事な筆さばきに、ポルビュスとプーサンは感嘆する。
ところが、「これでもまだわしの『美しき諍い女』にはかなわない」というフレンホーフェルの言葉から、2人はぜひともその作品を見たいと熱望する。フレンホーフェルが、10年前から心血を注いで取り組んでいるのがその絵であった。プーサンとポルビュスは、フレンホーフェルの口からたびたび漏れる自画自賛の言葉を聞いて、その絵が想像も及ばぬほどのすばらしさであると推測する。だが、くだんの絵はいまだに未完であり、老画家は誰にもそれを見せようとはしなかった。
プーサンは、フレンホーフェルがその絵を完成させるためには、老画家の渇望する完璧な美を備えた女を用意すること以外にないと思った。そして、ジレットというたぐいまれな美しい恋人を裸体モデルとしてフレンホーフェルに差し出すことを決意する。
ジレットというモデルを得て、フレンホーフェルの絵は完成するが、アトリエに招じ入れられた2人が見たものは……結末は本書を読んでもらうとして、ここではフレンホーフェルの(というより、バルザックの)芸術論に焦点を当てたい。
冒頭、ポルビュスの絵を見たフレンホーフェルはこう述べる。少し長いが、引用しよう。
「きみの描く女はまずい出来ではないが、生きてはいない。きみたちは、解剖学の法則にもとづいて顔を正確に描き、しかるべき位置に各部分を描けば、万事できあがりと思い込むだろう? 一方の側を片側より暗くしようと気をつかいながら、パレットの上であらかじめこしらえた肌色の色調でぬりあげる。そして、きみたちは、ときどき台の上に立った裸の女を見るからといって、自分は自然を写し取ったと思い込み、自分こそ画家でござい、神の神秘をかすめ取ったなどと想像するのさ!……ブルルル! 偉大な詩人には、統辞法を徹底して知り尽くしても、言語の間違いをしないくらいでも、不十分なのさ。ポルビュス、じっくりきみの聖女像を見てごらん? 一度目には聖女はすばらしい、でも二度目に見ると、気づくのさ。カンバスの底に貼りついていて、身体の周りを一回りなんてできないって。これでは反面しか持たない影絵だ。振り向き、位置を変えることさえできないような切り抜かれた外観にすぎないさ。その腕と画面の領野とのあいだに、私には空気が感じられないのだ。広がりと深みが欠けているのさ。それにしても遠近法はすべて見事だよ。それに、色彩の濃厚もまさしく守られている。だが、このように称賛すべき努力にもかかわらず、この美しい身体が生命のなま温かい息吹によって生きづいているように私には思えないんだ。こんなにもしっかと丸みを帯びた喉に手をもっていったら、大理石でできているように冷たいと思うだろうよ! そうなんだよ、きみ、この象牙色の皮膚の下には血が流れていないんだよ。こめかみや胸のすき通った琥珀色の下に見える網目状に絡み合った毛細血管を、この存在は真っ赤な露でふくらましはしないのさ」
また、こうも言う。
「芸術家の使命は自然を模写することではない。自然を表現することなんだ! きみは卑しい模倣者ではない、詩人なんだよ」
フレンホーフェルは、対象を正確に描くことを第一義とするアカデミックな美術観に対して、アンチテーゼを示している。三次元のモチーフを二次元に置き換えるわけだから、本来、奥行きも質感も温度も匂いも、まして生命感など現れるはずがない。しかし、それでは「死んだ絵」だというのだ。
その時代まで、アカデミー絵画の観念は定着していたが、それに飽き足らない新進の画家たちは、それゆえにフレンホーフェルの影響を受けた。その筆頭はセザンヌであり、ピカソであり、デ・クーニングである。セザンヌは「知られざる傑作」で語るフレンホーフェルの言葉を、なかば神のお告げのごとく信奉していたし、ピカソは「知られざる傑作」をテーマにしたデッサンを100枚以上残している。フレンホーフェルの芸術論は、ドラクロアの理論の焼き直しだと指摘する美術史家もいるが、小説家として芸術の深奥に入り込んだバルザックだからこそ、美術の本質も見抜いていたにちがいない。
1991年、この作品はジャック・リヴェットによって『美しき諍い女』という名で映画化されている。拙著『多樂スパイラル』でその映画については詳しく触れたから、ここでは言及しまい。脚本はかなり手を加えられているが、フレンホーフェルの芸術論がみごとに映像化された傑作であることを書いておく。
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