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紺碧の将

サイモン&ガーファンクルの終点にして頂点

file.034『明日に架ける橋』サイモン&ガーファンクル

 これまでを振り返るに、私を大の音楽好きにしてくれたのは、まぎれもなくサイモン&ガーファンクルである。

 中学生になって間もなく、ラジカセを買ってもらった。ラジオとカセットテープデッキが一体になったもので、当時、暇さえあればエアチェックをしていた。エアチェックとはラジオ放送を録音することで、情報が乏しかった時代、〝未知の音楽〟に出会うには最適の方法だった。

 ある日、なにげなく録音した数曲が妙に気になった。しかし、曲名を伝えるDJの声は入っておらず、いったいだれの曲なのかわからない。わからないままに半年ほど過ぎた頃だろうか、どういう経緯だったかは覚えていないが、サイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』に収録されている曲だと知った。それからレコード店で『サウンド・オブ・サイレンス』のシングルを買ったのだが、じつはオリジナルのスタジオ盤ではなく、発売されたばかりの『ライブ・ライミン』(サイモン&ガーファンクル解散後、ポールが出したソロのライブ盤)からシングルカットされたバージョンだった。ジェシー・ディクソン・シンガーズというゴスペル・グループを従えての演奏だ。

 貪るように聴いた。そして、毎月のこづかいを貯めてサイモン&ガーファンクルのすべてのディスコグラフィー(解散後のソロ活動も含め)を買おうと決めた。

 すべてが揃うまで2年ほどかかっただろうか。とにかく、その頃が音楽に関する私の原体験といえそうだ。それまで海外の古典文学に首ったけだったが、そこにポップ・ミュージックというジャンルが加わったのだ。私にとっての「音楽」は洋楽だけで、友人たちが熱中していた歌謡曲やフォークソング、あるいは親が聞いていた演歌にはまったく興味がなかった。

 サイモン&ガーファンクルは1964年にデビューし、1970年に活動を停止するまで、オリジナルアルバムをわずか5枚しかリリースしていない。『水曜の朝、午前3時』『サウンド・オブ・サイレンス』『パセリ・セージ・ローズマリー&タイム』『ブックエンド』、そして『明日に架ける橋』。

 曲想の豊かさと意外な展開、脚韻の心地いい響き、ハーモニーやアコースティックギターの美しい音色……どれをとっても高いレベルで結実した作品ばかりで、似たような曲がほとんどない。まさにアイデアの宝庫だった。私は訳詞だけでは満足できず、英和辞典片手に自分なりに詞を訳し、ノートに書きつけた。後に、曲がりなりにも簡単な英語の小説を原文で読めるようになったのも、その頃の体験が役に立っていると思う。

 後期の3枚はどれも甲乙つけがたいが、ここではあえて『明日に架ける橋(Bridge over Troubled Water)』を取り上げた。

 1970年、アルバムとシングルが同時に発売された『明日に架ける橋』は、全世界で1,000万枚を超える大ヒットとなり、グラミー賞の最優秀レコード賞・最優秀アルバム賞・最優秀録音賞など6部門を受賞した。

 収録されている曲は粒ぞろいで、このなかからシングルが5枚もカットせている。アルバムより一足先にシングルとして発売され、ヒットした「ボクサー(The Boxer)」はポールの真骨頂ともいえる物語詞が際立っている。プロデューサーのロイ・ハリーと苦心惨憺し、いくつものトラックをパラレルに録音したというエピソードがある。

 タイトル曲の「明日に架ける橋」はビルボード誌で年間1位になるほど愛された曲だが、じつは私はさほど好きではない。どうしても〝道徳臭〟が鼻につくのだ。村上春樹の長編『ダンス・ダンス・ダンス』の冒頭部分に「あの偽善的なサイモン&ガーファンクル」という記述が出てくるが、これは「明日に架ける橋」を指していると思われる。1969年から1971年にかけて、ジェームス・テイラーの「きみの友だち(You’ve Got a Friend)」やビートルズの「レット・イット・ビー(Let It Be)」など困難に直面した時の慰めとなるような曲が多く発表されたが、ベトナム戦争後という時代背景も大きく影響しているのではないか。当時の人々(特に若者)は音楽に救いを求めていたのだ。

「明日に架ける橋」をさほど好きではないと書いたが、厳密に言えば、アート・ガーファンクルがリード・ヴォーカルをとったオリジナル・スタジオ盤があまり好きになれないということ。アートの声は澄み、声域も広く、文句のつけようがないが、だからこそ妙味がない。まさにヴェルサイユ宮殿の庭である。それと比べると、先述の『ライヴ・ライミン』に収められていたポールのパフォーマンスぼ味わい深さは尋常ではない。ポール・サイモンに会いたくてニューヨークへ行き、そのまま住み着いてしまった友人も同じことを言っていた。

 ポールが英語で詞を書き、ロス・インカスと共演した「コンドルは飛んで行く(El Condor Pasa)」もユニークな曲だ。ペルーの民謡はこれで一躍世界に知られることになった。他にも「いとしのセシリア(Cecilia)」やエヴァリー・ブラザーズのカヴァー「バイ・バイ・ラブ (Bye Bye Love)」がシングルとしてカットされた。

 この頃のサイモン&ガーファンクルは絶頂期で、シングルを出せば、ヒットチャートを駆け上がった。おそらく、アメリカ人の心情として、イギリスのビートルズへの対抗意識としてサイモン&ガーファンクルを贔屓にするという傾向もあったと思う。1968年のグラミー賞での「ミセス・ロビンソン(Mrs, Robinson)」と「ヘイ・ジュード(Hey Jude)が争い、大方の予想を覆して前者が獲得したこともその一例だろう。

 私は「ニューヨークの少年(The Only Living Boy in New York)」や「ベイビー・ドライバー(Baby Driver)」も大好きである。アルバムの最後を飾る短い曲「ソング・フォー・ジ・アスキング(Song for the Asking)」は文字通り、サイモン&ガーファンクルの幕引きとなった。

 折につけ、死ぬまで聴き続ける作品であることはまちがいない。

 

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