「お母さん、彼らは詩を書くのです」
これほどの生き地獄に自分が置かれたとしたら、いったいどうしただろう。何度も何度も何度もそう自分に問いかけながら読んだ。
もちろん、答えなど出るはずもない。一分の隙もないほど人権を守られ、これから先もじゅうぶんな食料と安息できる住居があると信じている人間に、そんな極限状態のことを想像するなどできるはずがない。
自分よりたかだか40年か50年早く生まれた日本人が、実際に行ったという事実に打ちのめされる。ふだん、良識ぶっている自分にも、このような残忍な血が流れているのではないかと思うと怖くなる。否、この残虐性は日本人のみならず、すべての人間にあるのだろう。地上の生き物で、もっとも残忍なのは他ならぬ人間なのだから。
小説の圧倒的な力を思い知らされた。読みながら、私はずっとシャム(タイ)のジャングルにいた。
これが歴史書の記述であれば、
「太平洋戦争のさなか、日本軍は補給路を確保するために、タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道と呼ばれる鉄道をわずか15ヶ月で完成させた。イギリス軍は5年かかっても建設は無理と断念したが、日本軍は不屈の精神によってこの事業を達成できるとした。資金も重機も時間もない過酷な状況下、昼夜分かたずの強制労働によって多くの犠牲者を出したために〝死の鉄路〟として知られる。建設には連合国の捕虜6万2000人(うち1万2000人強が死亡)のほか、〝ロウムシャ〟と呼ばれる数十万人の東南アジア人が使役され、半数以上が犠牲になったとされている」
となるだろう。
犠牲者の数は、あくまでも統計上の数字として扱われ、一人ひとりの人生に思いを馳せることはない。しかし、実話をもとにした本書に没入することによって、私は疑似体験することができた。時代も隔たり、安全な場所で読んだにすぎないが、そこで行われたことに対し、心情をもって向き合える地点に立ったというだけでも一読の価値があった。
読み進めるうち、冒頭のエピグラムに引用されている「お母さん、彼らは詩を書くのです」という1行の言葉が、少しずつ鎌首をもたげてくる。つまり、この言葉の前には(こんなに残忍なことをするのに)という逆説的なかっこ書きの言葉が隠されているのだ。
本書の主人公は、1943年、オーストラリア軍軍医で日本軍の捕虜となったドリゴ・エヴァンス。彼は、この鉄道の建設現場に捕虜たちのリーダーとして送られる。日本人将校と交渉し、できるだけ多くの者を救おうとするが、歩くことさえままならない捕虜を何百人も過酷な労働に送り出し、彼らが暴行をふるわれ死に至るのをただ傍観するしかなかった。著者リチャード・フラナガンの父は、この強制労働からの生還者の一人で、自分の息子に微に入り細に入り当時の状況を説明していたという。だからこそ、細部の描写はじつにリアリティーがある。
本書の構成は、大きく3つに分かれる。戦場へ送られる前、鉄道建設に従事した期間、そして生還したあとのドリゴ・エヴァンスの回想である。
訳が絶妙だ。会話文の「 」はすべて省略され、地の文に組み込まれている。誰の発言かわからないところもある。この独特の文体によって、過酷な状況と回想との間に薄い被膜のようなものが生じ、異様な空気を醸す。夢のなかの出来事のようでもあり、狂気の一歩手前の精神状態のようでもある。
建設作業場はさながらこの世の地獄だ。淡々と描かれているだけに、残酷さが増す。日本兵はときどき憂さ晴らしをするかのように、中国人に(墓)穴を掘らせ、その縁に立たせて首を斬る。瞬時に首から血が噴水のように噴き出す。兵士は刀についた小さな玉のような脂肪を見て、「これほどまでにやせこけた男のやせこけた首に、こんな脂肪があったのか」と驚く。
飢えと病で骨と皮ばかりになると肛門が飛び出しているように見えたり、胸の皮膚が突き出た肋骨の上に洗濯ばさみでとめて乾かしているように垂れているというような描写に、過酷な状況が浮き彫りになる。排便をがまんできず、そこらじゅうに糞便を撒き散らし、熱帯のジメジメした空気と悪臭が混じり合い、死を待つばかりの病身を横たえている男など、これでもかとばかりに続く地獄絵図に胸が苦しくなる。
オオトカゲと言われ、捕虜たちから恐れられている残忍な男が、ある日、特別の理由もなく数百人の捕虜の前で一人の男に暴力をふるう。男はすでに立つこともできないほど満身創痍だが、オオトカゲは手をゆるめることなく、殴る蹴るを続ける。やがてベンジョにうつ伏せになって溺死した男の死体が発見され、引き上げられる。すると、体はウジに覆われ、奇怪なまでに傷み、つぶれ、汚物にまみれ、汚れ壊れていた。
生きたまま捕虜を手術台に乗せ、人体解剖実験をされたアメリカ人のエピソードもある。日本人医師は麻酔もせずに捕虜の腹部を切り、肝臓の一部を切り取って、傷を縫い閉じ、次に胆嚢と胃の一部を切り取る。猿ぐつわをかまされ、叫ぶこともできないアメリカ人の心臓を取り除くと、それはまだ脈を打っていて、秤に置くと震えていた。
……と、とにかく読み通すのがつらい物語だ。
にもかかわらず、この小説は淡々と、できるかぎりの公平さによって描かれ、日本兵の残虐な行為に対し、声高に異を唱えたりはしていない。それどころか、加害者である日本軍のなかにも理不尽な差別意識があり、被害者がいて、その怒りが他者へ向くという人間の本性をあぶり出している。
戦後、生還したドリゴは戦争の英雄として名声を得るが、彼は虚無のなかに生き続ける。いったいなぜ生還した英雄がこんなことになってしまったのか。女性たちとの関係や捕虜収容所での体験などの過去を回想する形式で描かれていく。
それにしても、タイトルが意味深長だ。原題は「The Narrow Road to the Deep North.」、文中にいくつも芭蕉や蕪村らの俳句が出てくることを考慮しても、邦題は適切といえる。
ドリゴと現場を指揮していた日本人のコウタ大佐とナカムラ少佐が共有していたものが俳句の精神だった。二人は俳句をはじめ、日本文化のすばらしさを語り、意気投合する。ナカムラはこう言う。
「日本人の精神はいまそれ自体が鉄道であり、鉄道は日本人の精神であり、北の奥地へと続くわれらの細き道は、芭蕉の美と叡智をより広い世界へと届ける一助となるだろう」
自分たちの非道な行為が天皇への忠誠と俳句への理解を介して慰撫され、正当化されていくことを願うかのように。もちろん、彼らの理屈で借用された俳句に罪はない。コウタ大佐とナカムラ少佐も本心から俳句の美しさに魅了されているわけではないだろう。彼らはただ日本的精神のシンボルとして俳句に心酔しているのだ。そういう意味では芭蕉も天皇もいい迷惑である。
ドリゴもまた文学を愛する人間であることから、市井の日本人が俳句に寄せる精神について考え、死の床でも俳句の奥義を問い続けた。
詩心を理解する彼らと比べると、捕虜たちの軽口はいかにも無知な人間に思える。しかし、絶望的な状況だからこそ、現実を茶化し、くだらない冗談で無理に笑いを誘う哀れな姿がいっそう心に沁みる。
本書は生半可な書物ではない。戦争がいかに人間の奥底に潜んでいる残忍な心をあぶり出すのか、そして平時に語られる正義とはなにかなど、読者に痛烈な問いを投げかける。
しかし、なんと甘美な問いかけでもあるのだろう。人間は本心では、このような極限状態を望んでいるのかもしれない。もちろん、加害者という立場で。
読む前と後では、明らかに自分が変容している。
2014年度ブッカー賞受賞作は、とんでもない起爆剤である。
髙久の電子書籍
本サイトの髙久の連載記事