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紺碧の将

不条理と貧困が生んだ、時間に摩耗しない文学

file.109『にごりえ・たけくらべ』樋口一葉 新潮文庫

 

 ふだん、現代語を当たり前のように使っている身からすれば、読みこなすのにかなりの労力が要る。集中を切らさないのは絶対条件として(少しでも気が緩むと、なにがなんだかわからなくなる)、故事や古典、伝統芸能などからの引用が多く、それらに通じていなければ、作者の意図が伝わってこない。たとえば、わが国の神話の題材をはじめ、『源氏物語』『古今和歌集』『新古今和歌集』『和漢朗詠集』『後拾遺集』、あるいは『長恨歌』など中国の故事や詩、常磐津や浄瑠璃などの芸能、はては遊郭吉原のしきたりや俗語、そして当時の時代を写した独特の言いわましが多用されているのだ。当然のことながら、巻末に付されている字句の解説と首っ引きになるから、読むスピードが遅くなる。

 読み終えて、やはりこの人はとんでもなく天才だったのだと思い知らされる。ちょっとくらいの天才ではなく、〝とんでもない天才〟。

 樋口一葉の文学世界が頂上に達したのは、明治28年。わずか1年強の間に『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』といった傑作を発表し、それからすぐ、肺結核により夭逝した。わずか24歳6ヶ月の命だった。

 本作には、前述の3篇を合わせて8つの短篇が収められている。いずれも当時の時代背景が色濃く反映されている。長い封建の後に到来した近代合理主義だが、市井の人々の生活を楽にはしなかった。むしろ、社会は矛盾に満ちていた。

 士分だった父を持つ一葉も例外ではなかった。それどころか、樋口家は赤貧洗うが如しの状態に陥り、ついに一葉は17歳という若さで一家の家計を担うことになった。小説を書き始めたのも、お金になるからという理由だった。幼少の頃から群を抜いて文学的な素養があった彼女が、もっと裕福な環境に身を置いていたとしたら、その文学世界はまったくちがったものとなっていただろう。

 とはいえ、不条理をはらんだ時代背景と樋口家の経済的困窮がなければ、一葉の文学が生まれなかったであろうことも想像できる。

 一葉の描く作品のリアリティは、困難な状況を乗り越えるのではなく、やむにやまれずそれを受け入れるという諦観を基に成立している。皮肉なことだが、一葉は社会の不条理や極度の貧困をエネルギー源にして創作に立ち向かったのだ。しかし、そのエネルギー源は長く持つものではない。またたくまに命の炎を燃やし尽くした。

 救いといえば、「奇跡の14ヶ月」(一葉研究家の和田芳恵は『大つごもり』から『裏紫』にかけての期間を奇跡の14ヶ月と呼んだ)の間に生み出された傑作群である。それらは今でも読みつがれ、本人の意思とは関わりなく、一葉の肖像画は現代の紙幣に使われることになった。生前、きわめて貧しかったのに、死して後、自分の容姿が紙幣に使われることになるとは、なんという皮肉……。

 本書に収められた8篇のなかで、もっとも印象深いのは『十三夜』だ。

経済的に恵まれた官吏に嫁ぎ、一子をもうけるが、自分を蔑み、妻扱いされないお関は、「鬼の良人(おっと)」に愛想を尽かし、実家に逃げ帰るが、父はそんな娘を諭し、婚家に戻らせる。

 その帰り道、上野の森で拾った人力車の車夫は、かつてのお関の幼馴染み、録之助だった。互いに淡い恋心を抱いていた二人だったが、お関の結婚後、録之助は自暴自棄になって財産を食いつぶし、車引きに堕ちていたのであった。録之助はお関を乗せて走ることに耐えられず、途中でお関を降ろしてしまう。最後、月明かりのなかで見つめ合う若い二人が印象的だ。

 お関の父は、じつにうまく娘を諭したが、娘を慮ってというより、その結婚が続くことによって経済的な実益を得ようとしていた。結局、お関は貧しさに抗えず、暴君のもとに帰っていく。

『にごりえ』は銘酒屋の遊女お力が、落ちぶれて妻子とも別れた源七と情死するまでを描く。源七の没落の原因は、お力に入れ込んだこと。最後、お力は源士を狂わせた罰を引き受け、源七と心中する。

『たけくらべ』は、吉原の廓に住む少女美登利と僧侶の息子信如との淡い恋を中心に、当時の子供たちの生活を描き出した作品。主人公の美登利は、遊女になる以外、選ぶ道がない。一方の信如も土地と家に縛られ、自分が望む人生を選ぶことはできなかった。

 明治と聞けば、近代日本の黎明期という印象があるが、一葉の文学によって、その一端を詳細に覗くことができる。われわれはいま、自由に夢を描くことができる。それが叶わなかった時代が、ほんの少し前まであったということを教えてくれる。それを思えば、目の前の些細な障害など、なにほどのこともないと。

 生きたくても生きられなかった時代、やりたくてもそれを選べなかった時代……、封建制度が終わり、新しい社会になっても、市井の人々に自由な選択権はなかった。そんな時代の空気を、一葉は鋭利な刃物でみごとに切り取り、後世のわれわれに示してくれている。

 すごい人がいたものだ。

 

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