見えるものの先にある見えないものを見る
先日、丸の内にある日本工業倶楽部会館という由緒ある建物で、不肖・私の講演をさせていただいた。
テーマは、「見えるものの先にある見えないものを見る力」。
この場合の「見えないもの」とは、それぞれ自分はなぜ生まれてきたのか、なぜ生きているのか、自分という存在は何なのか、自分の役割とは何か、何をすれば最期に満足できるのかといった、本質的で遠大なテーマに対する各々の答えをさす。もちろん、それらは誰の目にも見えないし本人にも見えない。答えはひとつとは限らないし、永遠にわからないかもしれない。
しかし、それを意識しながら生きるのか、あるいは意識せずに日々の雑事に追われて生きるのかでは、長い間に大きなちがいになるということを冒頭に申し上げた。まして、来ていただいた方のほとんどは会社経営者。政治家と企業家は社会に対する影響力が強いポジションである。そういったことを意識するのは、ある意味、企業家の責務であると思っている(と、偉そうなことを言ったが、そう考え始めたのはたかだか10年くらい前のことである)。
どうしてそんなことを思うのかと言えば、今まで約25年間会社経営をしてきたが、心身ともにすこぶる健やかに過ごすことができたからだ。病欠は一回もなく、朝はわくわくしながら目覚め、その日何をするのか基本的に自由という日々をおくっている。それは偶然のたまものではない。そうなろうと意識したからこそ、できたのである。私は事業者として成功を収めたとは思っていないし、まだまだ上り坂の途中だと思っている。しかしながら、大きな成功を収めたにもかかわらず、それに反比例するように空虚な人生をおくっている人たちを少なからず見ているので、どうしてもそのような問いをせずにはいられないのだ。
さて、そのような本源的なテーマに取り組むうえで、不可欠なことといえば、自分のアイデンティティーをきちんと確立することであろう。つまり、日本とは何か、日本人とは何かということ。それがなければ、どんな理念も砂上の楼閣。根無し草は多くの共感を得られない。まして、外国人からリスペクトされることはないだろう。
そういうこともあって、日本の特質について半分以上の時間を割いた。
残りは、本質的思考法に関する話であった。これは今までの半生、少年時代から読んだ膨大な書物、そして今師事している田口佳史先生の教えによるところが大きい。
質疑応答と合わせ、1時間半の持ち時間だったが、私の能力不足もあって、伝えたいことの半分も伝えられなかったという実感がある。それでも多くの方に満足していただいたようで、いくぶん安堵している。なにはともあれ、貴重な時間を割いて私のような者の話を聞きたいという方がおられるのだから、少しでも役にたたなかったら自己満足以外のなにものでもない。
ところで、日本工業倶楽部会館は、一般ピープルが立ち入ることのできない “もったいぶった” 建物だが、それだけの価値はある。新しい建物にはない、厳かな空気がただよっているのだ。天井は高く、シャンデリアがいかめしく輝いている。広い空間に人の気配がほとんどないというのもいい。静謐であることが、そのまま格調につながっている。
http://www.kogyoclub.or.jp/
(111011 第287回 写真は講演前の拙者。久しぶりに和装であった)