究極の女たらしの豊穣な世界
現在、男女の情愛を書かせたら右に出る者はいないと言われる髙樹のぶ子が、ついに究極の情愛に踏み込んだ。わが国の古典文学の名作のひとつに数えられる『伊勢物語』をベースに、在原業平を主人公にした小説を書き上げたのだ。
私は『伊勢物語』を読んだことがない。業平がどういう人物か、詳しくは知らなかった。通読しわかったことは、仕事もろくにしないで、やんごとない女人に懸想し、歌詠みという武器で次々と相手を籠絡した男だということ。羨ましいというより、呆れ果てるのだが、そういうことがまかり通るほど平和だったともいえる。
本作はタイトルにも「小説」と謳っているように、業平の心中や語りは著者の創作である。しかし、随所に男女の情愛の本質が描かれ、お見事というほかはない。例えば、こういう表現がある。
――男の恋は二つ方向へ向かうもの。叶わぬ高みの御方への憧れと、弱き御方を父か兄のようにお護りしたい恋と。いずれも叶うこと難く、ゆえに飽くこともなし。
男の恋心はおおまかに二つに分けられる。ひとつは、高嶺の花を射止めたいと願うこと、もうひとつは、か弱き女性を父か兄のように護りたいと願うこと。
なるほどと思う。業平は明らかに前者だ。私は……ま、いいか。
業平は、あろうことか清和天皇の后になった高子(たかいこ)を奪って恋の逃避行に及び(高子は連れ戻されるが)、不浄な行為は許されるはずもない恬子斎王を誘惑し、子供までつくってしまう。その他、美しい女性(しかも血筋のいい)を見ると、すぐに目がハートマークになってしまう。天皇の血筋にあり、当代きっての歌詠みで、しかもイケメンときているのだから、モテないわけがない。
とはいえ、本人の心は穏やかではない。いつも女人に懸想してはいるものの、必ず成就するとは限らない。そんな気持ちを、次の有名な歌が表している。
世の中に絶えて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし
この世に桜というものがなければ、散るのを案ずることもなく、春の心も、のどかに過ごすことができるというもの。
この歌の桜は、女人でもあろう。花と同じように、心騒ぎの素となるのだ。
すると、だれかが業平に返す。
散ればこそいとど桜はめでたけれ
うき世になにか久しかるべき
このあたりのやりとりは当意即妙で、当時の日本の貴族の教養の高さに驚くばかり。
伝えたいことを直接言わず、歌に託すというところがすごい。しかも、もらった方も間を置かず自分の心を歌にしたためる。そのうえ、そこで交わされた歌が、こうして千年ののちの世に遺っている。これはとんでもないことだ。いったいだれが歌を書き留め、どのようにして現代まで保存されてきたのか。先人たちの功績にあらためて感心する。
面白いくだりがある。晩年の業平に連れ添った「伊勢の君」が、業平にこう尋ねる。
――良き男に生まれられ、多くの女人に懸想し、思いを遂げられました。そのいずれの時が、恋の最上でございましたか。
あなた様はいろんな浮名を流したけれど、どれがいちばんよかったですかと直截に訊いているのだ。それに対して、業平はこう答える。
――いまだ叶うか叶わぬか見えぬ時。憧れが立ちのぼり、その中にわずかな望みが見え隠れするときこそ、懸想の最上の時。
願いが叶うか叶わないかという状態のときに、わずかな望みが現れてくる時だ、と。
これは、すべてに言えることかもしれない。
卑近な例だが、学生時代に買ったレコードの価値は、現在の100枚分に相当するかもしれない。わずかな小遣いを貯め、視聴もじゅうぶんにできない状況で、1枚を選び、それが想像以上に良かった時の感動たるや(もちろん、その反対もある)。
ところが、大人買いができるようになると、その価値は激減する。物は同じなのに……。つまり、なにかを目指して成長している過程にこそ、生の歓びがあるということ。
髙樹のぶ子の筆力には、感服するばかりだ。体言止めや文の途中で止めるなど、独特の言葉のリズムが生きている。
『伊勢物語』125章段の和歌を、場面に合わせて効果的に取り入れているところもいい。
業平という主人公にはちっとも共感を抱かないが、日本には千年前からこんな文化があったのだと、ちょっと誇らしくもなった。
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