フェティシズムとマゾヒズムの芽
見よ、この装丁の美しさを! まさに谷崎潤一郎の世界そのものではないか。背表紙には金箔押しが効果的に使われ、赤地の紋様との絢爛たる調和が際立つ。化粧箱にはタイトルだけを印刷した紙片が糊付けされている。
本書は、昭和48年に刊行されたもので、「刺青」「麒麟」「少年」「幇間」「秘密」という5つの短編小説と「象」「信西」という2つの戯曲が収められている。女性の肌や足に対するフェティシズムや、マゾヒスティックな性的倒錯に溺れる男の姿など、谷崎作品のアイコンともいえるモチーフが随所に見られる初期の作品集である。同じ作品でも、こういう本で読むのと文庫本で読むのとでは、味わいが異なると思う。上品なコーヒーカップと安物のそれで飲むコーヒーの味わいが異なるのと同じように。
5つの短編のいずれも印象深い秀作だ。なかでも私が好きなのは「少年」。谷崎自身もこの作品を「前期の作品のうちでは、一番キズのない、完成されたもの」と語っているが、谷崎特有のフェティシズムやマゾヒズムにあふれている。
子供の〝ごっこ遊び〟は大人の性的倒錯を連想させる。絶大な権力を誇る大物政治家が、〝女王様〟の前に跪き、虐められることで興奮するというマンガを読んだことがあるが、まさにそういう倒置を想起させる。人間は、自分とはまったくかけ離れたキャラになりたいという願望があるのだろうか。
永井荷風は、自身の作品のなかで登場人物の「男」にこう言わせている。
「もう私はとても、あの若い新進作家の書いた『少年』のやうな、強い力の籠った製作を仕上げる事ができない」
別の機会でも、「他人から受ける侮蔑が極度まで進んだ場合、かえって痛切な娯楽慰安を感ぜしめるに至る病的の心理状態が、実に遺憾なく解剖されている」とこの作品をべた褒めしている。虐められたり、辱めを受けることが性的快楽につながるとは! なんとも人間はわけのわからない生き物である。ただ残念ながら、私にはそのような性癖は皆無で、リアルに想像することができない。
表題作の「刺青」も、一度読んだら忘れることのできない作品だ。主人公の刺青彫り師は、美しい女の肉体に自分の理想とする〝絵〟を描きたいという願望を持っていたが、それに見合う女を見つけられずにいた。ある日、駕籠の簾から女の美しい白い足を垣間見て、これこそ自分の求めていた女だと確信する。
女を説得し、怯える女を麻酔で眠らせ、女の背中に大きな女郎蜘蛛を彫っていく様子は、痺れるような描写の連続だ。麻酔から覚めた女が妖艶な眼を輝かせ、「お前さんは真っ先に私の肥料になったんだねえ」と語るくだりは、自分が言われたかのようにドキドキする。
「秘密」も谷崎らしい。なるほど人間の欲望の一端はこういうものかと感嘆させられる。
あることがきっかけで女装を覚えた男は、かつて関係を持っていた女と再会する。互いに、どこに住んでいるか、なにをしているかなど境遇を秘密にしたまま逢瀬を重ねていたが、男は相手の秘密を知りたくなり、ついに女の住まいを突き止めてしまう。しかし、秘密を知ったとたん、男は女への興味を失い、ほかの〝獲物〟を求めて徘徊するようになる。
秘密がほぼなくなること。それが結婚であろう。結婚してなお、互いに魅力を感じるためには、なんらかの〝秘密〟が必要なのかもしれない。
「幇間」(ほうかんと読む)という作品も、上の3篇と甲乙つけがたい。
幇間とは、宴席などで客の機嫌をとったり、芸を見せたりして場を盛り上げる職業を言い、いわゆる〝いじられ役〟である。
人から嘲笑されたりバカにされることに快感を覚える男が描かれている。マゾヒズムの派生種であろう。
実際、ときどき、こういう人に出くわす。人から笑われるだけではなく、自分で自分をも嘲笑の対象にし、周囲の空気を和ます人。
いつも不機嫌な人は環境汚染だと思うが、幇間は環境浄化の役割を果たしているともいえる。そんな人間の複雑な心理状態を、谷崎はみごとに掬い上げている。
谷崎がどのような価値観をもった人間か、それらの短編を読めば、ほぼその全容をつかめるが、「麒麟」という短編に、彼の人間観がよく表れている。
谷崎は中国古典にも通暁していた。この作品のテーマは、仁や徳を説く孔子が南子夫人の色に敗北するというものだが、作品中、孔子と老子の対比が描かれている。ものすごく大雑把に分類すれば、儒学(儒教)は社会的、積極的、男性的、道徳的で、老子(老荘思想)は隠遁的、消極的、女性的、自然的といえるが、谷崎は明らかに後者の思想に与している。なにしろ、四角四面の孔子が女性に負けてしまうのだから。
読みながら、私は喝采をおくっていた。だって、孔子だってそういう一面があったと思うからだ。
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