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紺碧の将

松井守男さんを悼む

2022.06.06

 『Japanist』第4号でご紹介した画家・松井守男さんが亡くなったことを新聞の訃報欄で知った。こちらから取材依頼をしたのではなく、先方から「取材してほしい」と連絡がきて取材したという稀有な事例だ。基本的に自薦は対象外としていたが、松井さんのことはテレビの特集(「日曜美術館」だったかな?)を見て知っていた。久しぶりに帰国して本屋に立ち寄り、『Japanist』を目にしたという(当時はまだ書店でも販売していた)。彼のような気骨のある人に見初められるというのは嬉しいものだ。

 当時、すでにフランス政府からシュヴァリエ芸術文化勲章とレジオン・ドヌール勲章を受章していた。いつも着物を着て、高下駄を履き、コルシカ島を拠点に活躍する現代美術家として地歩を固めていたが、とても気さくな人だった。家庭をもたず、特定の画廊や画壇にも所属せず、なにものにも束縛されずに自由自在に好きな絵を描いていた。

 しかし、そこへ行き着くまでにはさまざまな障害があった。とりわけ、フランスでのいじめがすさまじかったという。松井さんは、「フランスはギロチンの国ですから、いじめも半端じゃなかった」と笑っていたが。

 八方塞がりの彼に助け舟を出してくれたのが、ピカソの友人、ピニョン。彼は、なにかしてあげられることはないかと松井さんに聞いてきた。松井さんは「ピカソに会わせてほしい」と頼んだ。

 ピカソは快く会ってくれ、松井さんの絵を評価してくれた。そして、「ピカソをめざすな。マツイモリオをめざせ」と言った。以来、その言葉が松井さんを支えることとなる。

 その後の進歩(成長)と活躍は、ここでは省く。

 ひとつだけ書いておきたい。唯一の家族〝モンネコ〟のことだ。

 ある日、近くの海岸に野良ネコの死骸があった。よく見ると、子ネコがその死骸に寄り添っている。松井さんは半年ほど子ネコにエサを与え続けた。やがて、気がつくと松井さんの家の住人になっていた。そして、モンネコと名付けられた。モンは英語のMy、つまり「私の」という意味。なんだそりゃ? という気の抜けたネーミングである。

 彼はこう言った。

「モンネコは同志です。もう離れられない。モンネコが死んだら、僕も死んでしまいそう」

 まさかモンネコが死んで、そのあとを追ったわけでもあるまいが、あの颯爽とした松井さんがこの世にいないというのは寂しい。

 

松井守男芸術の分岐点になった『遺言』

 

『ORIGAMI』

 

『ARBRE DE VIE』

 

モンネコ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(220606 第1131回)

 

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