近現代のクラシックを援用した「ヒバリの舌のゼリー寄せ」
ロックをものすごく大ざっぱに分けるなら、「足腰系ロック」と「アタマ系ロック」になると思う。前者の代表はヘヴィメタ、後者の代表はプログレッシヴ・ロック(以下、プログレ)だろう。プログレをリードしたバンドは、ピンク・フロイド、イエス、エマーソン・レイク&パーマー、ジェネシスなどがあるが、質量ともに他を圧倒しているのはキング・クリムゾンだ。
彼らの活動は50年以上に及ぶが、そのなかで最高傑作を選べと言われれば、迷うことなく1973年に発表された『太陽と戦慄(Larks’ Tongues in Aspik)』をあげる。この作品はロバート・フリップの思想性と音楽性が高いレベルで結実した稀有な作品であるばかりでなく、普遍性も備えている。おそらく百年後も色褪せることなく聴き継がれていることはずだ。
原題の意味は「ヒバリの舌のゼリー寄せ」。中国に古くからある宮廷料理のひとつで、メンバーのひとり、ジェイミー・ミューア(パーカッション)が曲のイメージとして語ったところ、リーダーのロバート・フリップが、語感が面白いとして採用したという。〝aspic〟には毒、あるいは毒蛇という意味があり、アルバム全体に通底する繊細で鋭利なイメージと合致している。きわめて詩的な語感とニュアンスを含んでいる。
ちなみに邦題の「太陽と戦慄」は、意訳もはなはだしい。後年、日本語タイトルの意味を知ったロバート・フリップは、困惑の表情を浮かべたというが、当然だろう。ジャケットのデザインに太陽が含まれているからという理由だろうが、じつは太陽のなかに月が含まれている。戦慄は、いったいなにをもってそうなのか釈然としない。聴いたときに戦慄が走ったからだろうか。いずれにしても、作者の意図をまったく鑑みない悪弊である。
本作がユニークなところは、バルトークの弦楽四重奏曲第4番ハ長調やストラヴィンスキーの『春の祭典』を引用していること。だれも指摘しないが、あるとき、バルトークやストラヴィンスキーのそれを聴いて、「これはクリムゾンだ!」と、まさに戦慄が走った。否、クリムゾンがあとだから、「これはバルトークだ! これはストラヴィンスキーだ!」が正しいだろう。
オープニングの「太陽と戦慄 パートI (Larks’ Tongues in Aspik Part One)」は風雲急を告げるような始まりから、玉が転がるようなリズムセクションを経て、嵐が去ったあとの静けさをヴァイオリンが東洋的に奏で、再び冒頭のつんざくようなメロディーを反復するという構成。水面に映った光の反射と跳躍。一所不住の光のざわめき。早くもバルトークの引用を見つける。
5曲目の「トーキング・ドラム(The Talking Drum)」は、バルトークのリズムの引用が満載。小さな音がしだいに大きくなり、まるで発狂するかのように臨界点へ。
最後の「太陽と戦慄 パートII (Larks’ Tongues in Aspic, Part Two)」は圧巻のひとこと。登りつめたあと、音の点がフェイドアウトしていくエンディングのセンスも図抜けている。
収録曲の半分にジョン・ウェットンのヴォーカルがあるが、物足りなさは否めず、それだけが心残り。それさえ除けば、飛び抜けた名盤といえる。
余談だが、映画『エマニエル夫人』(1974年)に使用されている音楽が「太陽と戦慄 パートII」の盗作だとしてロバート・フリップが訴訟を起こし、示談で解決したという出来事があった。バルトークやストラヴィンスキーからの盗作は問題にならなかったのだろうか(著作権の期限切れ?)。
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