肉体を離れ、思いは自由に駆け巡る
世にフランス文学好きはたくさんいる。筆者もその一人と自認しているが、フランス文学好きには大きく分けて2つのタイプがあると思っている。ひとつは〝陽の当たる道〟が好きなタイプ。もうひとつは〝ジメジメした暗い道〟が好きなタイプ。もちろん、私は前者である。本コラムで紹介したことのある鹿島茂氏もそうだろう。ユゴー、バルザック、デュマ、フローベール、モーパッサン、ゾラ、スダンダールなど、世界文学史に燦然と輝くビッグ・ネームたちによる傑作群を愛する人たちだ。
対して、後者はマルキ・ド・サド、バタイユ、ヴェルレーヌ、コクトー、ランボーなど、猥雑で独特の文体を特徴とする超個性派を偏愛する人たち。今回紹介する澁澤龍彦は、このタイプの急先鋒と言っていい。
彼がもっとも好きな小説を10作品あげているから、ここで紹介しよう。
・サド『悪徳の栄え』
・メリメ『イールのヴィーナス』
・フローベール『聖アントワヌの誘惑』
・リラダン『未来のイヴ』
・シュオッブ『架空の伝記』
・ロラン『仮面物語』
・ジャリ『超男性』
・ルーセル『ロクス・ソルス』
・アポリネール『月の王』
・マンディアルグ『大理石』
どうです? かなりイッチャッてるでしょう? なじみがあるのはフローベールとマンディアルグくらい。しかも、フローベールは『ボヴァリー夫人』を挙げていない。
澁澤は、「フランス関連についてわからないことがあったら澁澤に聞け」と言われるほどフランスに通暁していた。彼のエッセイを読んでいると、どうしてこんなことまで知っているのか? という驚きと戸惑いを覚えるばかり。地アタマがいいうえに、粘着質なのだろう。
ところで、彼がマニアックなフランス贔屓であることを説明したのは、彼の著作と大いに関係があると思うからだ。
彼の遺作であり、本コラムで紹介する『高丘親王航海記』の主人公は純然たる日本人であり、舞台は東南アジアや中国、ビルマ(現ミャンマー)、セイロン(現スリランカ)などと、どう考えてもフランスとは関係がないが、その実、たっぷりとフランス文学のエキスを含んでいる。逆説的にいえば、猥雑なフランス文学の香りをプンプン放っているがゆえに、『高丘親王航海記』たりえているということ。それゆえに、私はこの作品をフランス文学の系譜に連なると思っている。
高丘親王は、平城天皇の第三皇子。嵯峨天皇の皇太子に立てられたが、「薬子の変」により廃されたのち、出家し僧侶となる。空海の十大弟子の一人に数えられているのだから、かなりの人徳を備えていたのだろう。人物像の大きさは、本書にもずいぶん描かれている。なにごとも天衣無縫、融通無碍なのだ。仏法を極めようと、老齢で唐へ渡り、さらに天竺(インド)を目指して旅立ったのち、消息を絶った。在原業平の叔父でもある。
本書では貞観七年(865年)、二人の僧・安展と円覚と小姓の秋丸を従えて東南アジアからセイロンを経巡る、幻想的な旅を描く。鳥の下半身をした女、犬頭人の国など、奇妙な人間(?)たちに次々に出会う。
目指す天竺を間近にするも、命が残り少ないと悟った高丘親王が、天竺へ渡るため奇抜なアイデアを実行するところで幕を閉じる。
澁澤は病のため、この世を去ったが、自身と高丘親王を重ね合わせていたのであろうか。自分の一生がどのように終わるのか、関心を抱かない人は稀だろう。高丘親王の「終わり方」は夢のようだが、そんなふうに最期まで自在な心を持ち続けたいものだ。
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