人の抱き込み方の手引書
司馬史観なる言葉がある。どちらかといえば否定的に使われることが多い。司馬遼太郎独特の歴史観で、必ずしも事実ではないというニュアンスが含まれているようだ。しかし、歴史に〝完全な事実〟などない。
歴史的事実はあるとしても、それをどう捉えるかは立場によって大きく異なる。そもそも、無限にある歴史的事実のなかから、ごくごく少数の事柄を抽出した時点で、恣意的・主観的だといえる。
私が本書を読んだのは、中学2年生の頃。家康の狸爺ぶりと謀臣本多正信のずる賢さに嫌悪感を抱いた。対する石田三成は、狭量で不器用だが、義に篤く、聡明で強敵に対してもひるまずに戦いを挑み、戦いに敗れたという位置づけ。
司馬遼太郎自身が大阪生まれということもあり、秀吉びいき、家康嫌いだったのだろう。とかく家康の描きぶりは、執拗なまでに意地悪である。
まっさらの紙に青いインクが沁みるように、私は司馬史観の影響を受けた。家康を評価できるようになったのは、50歳の頃。考えてみれば、はかりごとばかりで自分のことしか考えていないような人物が天下をとれるはずがない。いくら〝利〟を説いたとしても、それだけでは人はついてこない。
とはいえ、関ヶ原の戦いを扱った小説としては、本書こそが決定版といえるだろう。だからこそ、のちの歴史小説家は、関ヶ原を題材にすることに躊躇があったはずだ。司馬遼太郎の関ヶ原観をベースに、司馬遼太郎が着目していないテーマを選んだり、あえて視点をずらすなど、小手先の対応を余儀なくされている。
冒頭がいい。当時、「三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城」と言われていたが、島左近がどのような経緯で三成の腹心になったかが描かれている。三成は左近を召し抱えるため、自分の俸禄の半分を差し出している。それだけを見ても、三成に私欲が少なかったことが窺い知れる。
対して、先述のように、家康と正信の調略はえげつない。太閤秀吉に続き、秀頼の守役として大阪城につめていた前田利家が逝去するや、なりふりかまわず諸将を調略していく。豊臣恩顧の大名を手なづけ、大阪方のなかに内通する者を仕込んでいく。関ケ原での両軍の布陣は、明らかに西軍有利だったが、蓋を明ければ、西軍で懸命に戦っているのは石田本隊のほか、大谷吉継、宇喜多秀家、小西行長の軍くらい。あとは傍観を決め込み、頃合いを見て裏切った武将もいた。
本書は、戦での先述よりも、いかに敵を少なくし、味方を増やすか、という戦略の描写に重きが置かれている。それはそのまま、現代にも通じる普遍的な内容でもある。
司馬遼太郎が描きたかったことは、最後に凝縮している。
関ヶ原から逃げた三成は、命からがら近江の旧領までたどり着き、かつて心をかけた領民の庇護を受けた。そこで、利害に対して義という理想は空論であったと悟る。しかし、かつての三成の善政に感謝を示し、死罪になることも恐れず三成をかばおうとする領民もいることを目の当たりにし、世の中捨てたものじゃないとも思う。
やがて、三成は自ら出頭する覚悟を固める。自分がここで遁走すれば自分をかくまった領民が罰せられるからだ。領民の命がけの義を裏切るようなことをすれば、三成は不義の輩と評され、関ヶ原の戦いも不義の戦とみなされるであろうと危惧する。
捕縛された三成は、大坂市中を引き回され、京の六条河原で斬首されたが、引き回しの最中にも威儀を保っていた。
中学生の時分、そんな三成の最期を読み、いたく感銘を受けた。それに比べて家康は……、と。しかし、それは単に司馬遼太郎さんの見方であって、事実はそれほど簡単ではない、ということが今ならわかる。
今や家康びいきの私だが、三成の魅力もそれなりに理解しているつもりだ。
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