極限状況で望む、ふつうのこと
戦争は組織と組織の戦い、膨大な数の人間が参加する。そのため、戦果は数字に置き換えられることになる。「戦死者○人」などと。
しかし、あらためて言うまでもないが、一人ひとりは生身の人間である。さまざまな思いを抱え、家族もいる。夢もあるだろう。ところが、そんな属性は統計の前ではなんの意味ももたない。個々の生身の人間が数字に変換されてしまう。「戦死者○人」のなかに紛れ込んでしまう。その統計を見る者は、その数に含まれている人間の属性を知ろうともしなくなる。それが統計の恐ろしいところだ。
その点、特定の人物に焦点を宛てたノンフィクションや、ある人物をベースにした小説はそうではない。一人ひとりが、針で指先を刺せば痛みを感じ、赤い血がにじみ出る、ふつうの人間であることが前面に出る。
本書は、ひとりの特攻隊員と婚約者の出会いと別れ、そしてその後を記したノンフィクションだ。
米英との戦争が始まる前、伊達智恵子さんは穴沢利夫少尉と出会った。
智恵子さんは「あなたのマフラーになりたい」と言い、二人は婚約する。しかし、二人を取り巻く時代の情況は、そんな若者の夢などおかまいなしだ。
穴沢少尉は、法曹の世界に進みたいという希望があったが、陸軍航空兵を志願する。やがて、鹿児島県知覧の特攻隊出撃基地から飛び立つことになる。智恵子さんのマフラーを首に巻いて……。
この時代を生きた若者たちの真情を推し量ることはできない。それほどわれわれは平和な世の中を当たり前と思っている。現下のロシアによるウクライナ侵攻も、対岸の火事、いやどこか遠くの絵空事だと思っている。かくいう私もその一人だ。
私は知覧特攻平和会館に2度、足を運んだことがある。壁一面に張り出された遺書を読みながら、こぼれる涙を抑えることはできなかった。勇ましいことや殊勝なことを書いてはいるが、行間から無念がにじみ出ている。
穴沢少尉は知覧から飛び立つ前、智恵子さんに宛て、手紙をしたためた。
――智恵子、会いたい、話したい、無性に。
彼が無性に望んだことは、平時であればあまりにもありきたりなことだ。ただ会って話す。それだけ。
しかし、それが叶わないとき、それがどれほど大切なことか身にしみるてわかる。
無念だっただろう。そして、そのような無念を懐きながら戦場の塵となった若者がどれほどいることだろう。
いつの時代も、戦争を起こすのはいい歳をした大人(男性)である。そして、戦死するのは若い男と相場が決まっている。ロシアの若者だって、わざわざ人を殺すために外国へ行きたいとは思っていないはず。しかも、自分の命を賭けてまで。それでも戦争を続行したい人がいる。
なんと理不尽な!
以前、テレビで「俺は戦争が好きなんだ」と息巻いている人を見たことがある。「平和はすべての人類の夢」というのは幻想だ。人間は一筋縄ではいかない。
本書を読むと、なにげないあたりまえの日常が、とてもいとおしくなる。
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