比叡山を体感する
西洋史や中国史においてジェノサイド(大量虐殺)はあまたあるが、日本史においてはほとんど見られない。そのなかで〝孤軍奮闘〟したのが織田信長である。伊勢長島の一向一揆や比叡山延暦寺でのジェノサイドは、異様なほど残虐で気味が悪い。信長は革命児にはちがいないが、あまりの狭量さと残虐さゆえ、どうしても好きになれない。
……と、信長に焼き討ちされた比叡山を肌で感じたいと思い、大阪に住む小娘を誘って出かけた。
比叡山を登るルートはいくつかあるが、私が選んだのは、無動寺谷から行くコース。焼き討ちの際は明智光秀が侵攻したルートである。
そこそこ急な坂を登りながら、思った。比叡山の麓・坂本に住んでいた人たちは「お山」に上がれば命が助かると思い、懸命に登ったはず。しかし、彼らの思惑ははずれた。信長は「効率的に」殺すため、麓の坂本や堅田の町を焼き払い、焼け出された大勢の住人を比叡山に集め、まとめて焼き払った。屍は子供も含め、老若男女ことごとく首を刎ねられ、埋葬も許されなかった。
この焼き討ちを肯定的にとらえる人も多いようだ。いわく堕落しきった僧侶が悪い、と。しかし、聖俗問わず、集団にはいろいろな人がいるものだ。悪い行いをしている一部の人を取り上げ、ジェノサイドに免罪符を与えるのは、原理主義者のすることだ。多くの共産主義革命指導者がジェノサイドを行ったのは、「集団にはいろいろな人がいる」という現実を直視せず、原理主義に陥ったからにほかならない。たしかに比叡山焼き討ちの後、僧兵はほぼいなくなったが、それだけをもってジェノサイドを肯定したくはない。
ところで、登山のこと。われわれの他に、歩いて登っている人の姿は皆無だった。みな、ケーブルカーを利用している。
途中、小娘の息が上がった。登山に馴れていないから、けっこうきつそうだ。しかし、登りきった後、「達成感あるだろ?」と訊くと、嬉しそうに頷いた。
こういう体験が大切なのだ。
ますますバーチャルが幅を利かす時代において、実体験を重ねることの意義は深い。
比叡山俯瞰図。真下に見える坂本の町から左に迂回し、無動寺谷を目指して登った
琵琶湖の向こうが比叡山
あまり整備された道ではないが、歩きやすい
あちこちに地蔵がある。焼き討ちの犠牲者の霊を鎮める
まさに修験の道といった風情
周囲は杉木立。焼き討ち当時もそうだった。火が一気に燃え広がる山だ
ほぼ登りきったあたり。前方に東塔エリアが見える
比叡山会館で琵琶湖を眺めながら、梵字入りのカフェラテを飲む。爽快のひとこと
山から琵琶湖を眺める
修復中の根本中堂(国宝)。完成は令和8年だとか
麓の町、坂本の里坊
旧竹林院の庭
(221212 第1158回)
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