いにしえびとの耽美
本書に収められている歌は、全部で1979首。見開きに6〜7首が収められ、欄上に細かい字で説明・解説が付されている。それらを読んで、これはと思ったものをワードに写し、何回も諳んじるのだからなかなか進まない。併せてガイドブックという位置づけで丸谷才一の『後鳥羽院』(ちくま学芸文庫)も読み進めた。旧仮名遣いのため読みづらい。そんなわけで、上下巻を読むのに2年も費やした。
なぜ『新古今和歌集』を読もうと思ったのかといえば、大好きな西行の歌がたくさん収められているからだ。なんと94首が選ばれている(もちろん入撰数トップ)。全体の約5%が西行の作品である。
西行のこんな歌がある。
寂しさに 堪へたる人の またもあれな 庵ならべむ 冬の山里
自分と同じような、寂しさに堪える人がいたら、庵をならべて一緒に暮らしたいものだ。この冬の山里で。
そんな意味だが、北面の武士だった西行が、家族を捨て、出家して和歌に生きているが、寂しくてしかたがないという情況をよく表している。
一般に『新古今和歌集』は、唯美的・情緒的・技巧的などと言われる。それらが肯定的な意図を含む場合もあれば、その反対もある。アララギ派の祖である正岡子規が『歌よみに与ふる書』のなかで『古今和歌集』を「くだらぬ集」と激しく罵倒したことはよく知られている。なにしろ、人を思い焦がれて涙が露となり、それを置いた袖がびしょびしょに濡れてしまうのだ。素朴に目の前の風景を詠んだ『万葉集』と比べれば、その作為性は顕著である。
ただし、めっぽう耽美的である。語感も美しい。洗練とはこういうものをいうのか。
こんな歌がある。
風吹けば 玉散る萩の した露に はかなく宿る 野べの月かな
秋風が吹いて萩の葉にのっていた露が玉と散り、その水滴をよく見ると、ほんのかすかに月が映っている。
ただそれだけの情景だが、自然のひとコマひとコマをつぶさに観察していなければけっして気がつかない微妙な変化をみごとに写し取っている。こういう文学遺産を好き放題味わえるというのは、この時代に生まれた特典である。
歌の前に、後鳥羽院による序文がある。これは着想が図抜けている。冒頭の文を現代語訳で紹介しよう。
大和の国の歌は、昔天地が開け始めて、人の営みがまだ始まっていない時に、日本の言葉として櫛名田比売、素戔嗚尊が住んでいた里より伝わった。
この国が誕生し、人々が生活を始める前から歌は日本の言葉として残っているという。「日本人が詠う前にだれが詠っていたんだよ」と突っ込みたくもなるが、それは櫛名田比売や素戔嗚尊などの神々だという。
スケールが大きすぎる。神々の言葉が『新古今和歌集』を編纂した時代まで受け継がれていると冒頭で言い切っている。
あらためて当時の日本人の豊かな感性に驚く。自然と心情が一体となっている。
読み進めるうち、幾度もため息が漏れた。ため息には2種類が混じっている。ひとつは、感銘を受けてのそれ。もうひとつは、自分も含め現代人にはとうてい真似のできない文学表現だという諦めのそれ。
もっとも、それを嘆いていても詮ないこと。そう思っているのなら、これらを味わえばいいのだから。
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