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紺碧の将

信頼を醸成する「心の数式」とは

file.155『博士の愛した数式』小川洋子 新潮社

 

 

 記憶力を失った天才数学者と彼の面倒をみる家政婦の「私」、そして数学者と同様、阪神タイガースファンである10歳の息子が織りなす特異な小説である。

 なぜ、特異か。

 数学の式に通常の言葉以上の意味をこめたという点で、この作品は明らかに他の小説と一線を画している。極端な言い方をすれば、数字がこの作品の肝をほとんど語り尽くしているのである。学生時代から数学が苦手だった筆者には、ことさら奇異に映るし、数字がこれほどまでに豊穣な世界を持ち、また雄弁であることに、少なからず衝撃を受けた。

 例えば、博士と少年が熱狂的に好きな江夏投手がつけていた背番号28は、完全数(その数自身を除いた約数の和が、また元の数になる)であり、フェルマーやデカルトでさえ一組ずつしか見つけられなかったという友愛数(その数自身を除いた約数の和が、それぞれ互いの数になるという二つの数字)は、単に数字であるというよりも、何か得体の知れない意味を内包した特別な世界であるかのような印象を受ける。

 確立されたある数式は、ものごとの本質であり、その範疇のいかなる計算に対しても絶対である。憲法や法律よりも絶対であるところに美しさがある。

 博士は、ある日、交通事故により、80分しか記憶できないという脳障害を受ける。しかし、事故以前の記憶はきちんと残っており、だからこそ天才数学者であることに変わりはない。80分しか記憶がないのだから、どんなに人と交情を重ねても、また「振り出し」に戻ってしまう。

 人間と人間の信頼関係というものは、それまでに蓄積した人間関係の上に成り立つ。しかし、博士と家政婦の「私」がいかに強い信頼関係を築こうが、博士と息子が仲良くなろうが、80分過ぎると博士の記憶はリセットされてしまう。まさに「一期一会」。その都度、初対面に戻り、心を許せる信頼関係を構築するための一連の儀式を要する。

 しかし、人間は学習する生き物である。回を重ねるたびに、それまでに要する時間や労力は徐々に少なくなる。つまり、「私」や少年は、短時間で博士の信頼を得る「数式」を学んでいくのである。その秘訣は何だろうか。文中から答えを抜粋する。

 ——私たちが払ったささやかな労力に比べ、彼が捧げてくれた感謝の念はあまりに大きかった。彼の心の根底にはいつも、自分はこんな小さな存在でしかないのに……という思いが流れていた。私たち二人は、差し出した以上のものを受け取っている、と感じることができた。

 

 この文章から普遍性を汲み取ることができる。

 

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