芸術を味わい、愉しむということ
辻邦生の芸術評論的エッセイ。
どれを読んでも一級品。芸術を深く愛する者による深い洞察が散りばめられている。
しかし、これほど内容の濃い良書が絶版というのはどういうわけなのだろう。筆者はアマゾンの中古マーケットで買い求めたが、それがなかったら、この本を読むことはできなかった。
こういう禅語がある。
――好事は門を出ず、悪事は千里を行く。
門を出ずというより、出られないといった方が正解かも。反面、悪事は黙っていても広がっていく。「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉もあった。いいものを次代に引き継ぐことは難しい。
辻邦生の著作は、本コラムで2回目の登場である。最初は『西行花伝』。超一級の描写にしびれまくった。
本書はそれに劣らない。ときに、モーパッサンやゲーテ、ベートーヴェン、モンテスキュー、トーマス・マンらの言葉を引用しながら、独自の芸術観を披瀝する。たとえば、こんな文章がある。
――グレン・グールドがいなかったと仮定してみると、私自身の音楽生活はずいぶん変わったものになっていただろう。というのも、音楽を聴く総量のうち、3分の1はグレン・グールドのバッハだからだ。
というほどグールドの弾くバッハを愛している。私にもその気持ちはわかる。ベートーヴェンの「第九」については、こう書いている。
――ホルンが軽やかな第5音を鳴らし、それは羽ばたきながら、第2バイオリンとチェロによる3連符のなかに溶け込み、その上に、あたかも第1バイオリンとビオラから流れ落ちるかのような2つの加工音が彩られるが、そこに感じられるためらいは直ちに焦慮に、不意に解き放たれた力の急襲を前にした逃走の願望に変わる。(ベートーヴェンの第九の冒頭について)
まるで目の前にオブジェがあり、それを正確にデッサンするかのような緻密な表現だ。
また、辻邦生は生粋のモーツァルティアンでもある。モーツァルトに関する記述も多い。
――モーツァルトは〈永遠の子供〉であった。「永遠の奇跡」という言葉も、生涯モーツァルトを愛していたゲーテが晩年に言ったのである以上、その意味の重心は、やはりこの〈永遠の子供〉のほうに置かれていたと見るのが自然だ。〈子供〉とは、この場合、世界と一つに合体し、世界と嬉々として戯れる状態のことである。たしかに子供は、世界の恐ろしさに触れず、運命の苛酷さ、存在の不安、貧困の辛さも知らないからこそ、その嬉戯性を保つことができる。
――モーツァルトを聴いていると、その典雅な幸福感のなかに、この世のあらゆるものが映っているような気がする。青空も、風におののく森も、厳しい山脈も、もだえる大海原も、天使たちの声も、魔王の叫びも、幸せな女も、滑稽な男も、善も悪も、生も死も、それはしばしばわれわれにシェイクスピアの豊穣な世界を思わせる。
――モーツァルトの音楽を聴くとき、感じるのは、この世に生まれて、このような音楽を聴くことができたという幸福感である。それはモーツァルトが何よりもまず、この世に生き音楽とともにあることに恍惚とした喜びを感じていたことを示している。つまりその歓喜が鳴りひびいているのである。
――5歳のとき、ピアノの小曲を作曲してから、35歳で亡くなるまで、生涯休みなく700に近い作品を書きつづけた。モーツァルトの楽譜をただ筆写するだけでも、30年かかっても不可能だというから、いかにたくさん速く作曲したかがわかる。
美術をからめた文章も生き生きとしている。
――モネは人物に日傘をささせることで太陽の角度を示し、スカーフを風に翻させることで風の流れを暗示するように、鉄橋の上を通過する汽車を描いて轟音を感じさせ、波と岩を描くことで風音と波音を描こうとしている。これは晩年モネが水面に倒影する雲や睡蓮や木立を描いて、実際には描くことのできない透明な水面そのものを現前させようとしたのと同じ発想なのである。形と色で捉えることのできない音響、時間の経過、風、透明な物体を描こうとしている。
――瞬間の光の効果を追求したモネに対し、セザンヌは、時間を超えた不動の世界を描いた。「モネは眼にすぎない。しかし何という眼だろう!」というセザンヌの言葉は有名だが、この言葉のなかにも、二人の絵の相違がはっきり出ている。
「眼にすぎない」というのは、外界のみをひたすら見、ひたすら感じた、という意味である。セザンヌはそこに、モネの偉大さを感じていたが、同時に、現象の表面しか描かないモネの限界を見ていた。
それに対して、セザンヌ自身は、現象(見えるもの)の奥にある不変の姿を掴み出そうとしていた。「不変の姿」というと、何か抽象的なものを想像させるが、そうではなく、セザンヌの心に、強烈な喜びを喚び起こす内容的な物の形、と言い直すことができる。
夕暮れが近づく頃、マーラーの第3番を好んで聴いたという辻邦生は、「美とは感覚を通って精神に到る道だ」というトーマス・マンの言葉通りに人生を生きた。これらのエッセイは、その残滓でもある。
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