古に生きた人たちの労働のおかげで
徳川家康の江戸入府の際に行われた江戸湾埋め立てについて興味をもち、調べた。すると、いろいろなことがわかった。なかでも驚いたのが、現在のJR御茶ノ水駅周辺はかつて神田山と呼ばれていた山だったこと。なんとその山を切り崩して日比谷入り江を埋め立てたというのだ。
重機のない時代、どうやって山を切り崩し、土砂を日比谷まで運んだのか。それを考えると、昔の人たちの途方もない力に感服する以外にない。
JR御茶ノ水駅付近が駿河台という住所になっていることも疑問だったが、それも氷解した。平たく言えば、将軍職を秀忠に譲り、駿府に隠居した家康が死んだのち、旗本(駿河衆)が江戸に戻ってきて住んだエリアだったということ。
いやはや……。
昔の人たちの労働のおかげで、現代に生きるわれわれは、多くの恩恵を受けている。そのことを忘れたくないものだ。
以下、御茶ノ水駅駅の前にある説明板より抜粋。
――高台である「駿河台」は元来、神田山と呼ばれていました。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江を埋め立てました。しかし、埋め立てによって、それまで海に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発するようになりました。そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外堀の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。こうして現在の駿河台が形成されました。
さて、家康が駿府で没した後、家康付を解かれ、駿河から帰ってきた旗本(駿河衆)たちが、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えました。駿河衆が住んでいたことや駿河国の富士山が見えたことなどから、この地は駿河台と呼ばれるようになり、多くの武家屋敷が立ち並ぶ地域となりました。
当時の地図
現在の地図
かつての神田山頂上付近
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(220611 第1182回)