命をまっとうした姿
前々回、植物たちの彼ゆく姿に哀惜の情を込め、金属で作品を創っているモリソン小林さんのことを書いたからというわけではないが、じつは私も最近、そういう心境になっている。
それに気づくことになる、事の発端は昨年の夏頃のことである。白いツバキの鉢植えに突如、雑草が生えてきた。「雑草という植物はない!」という昭和天皇の御声が聞こえてきそうだが、残念ながら名前はわからない。ただ、直径20センチばかりの鉢に見るからに頼りなげな草が一本、ニョロニョロと生えてきたのだ。はじめのうちは、そのうち引っこ抜いてやろうと思っていた。しかし、何度も目にするうちに、ただの雑草とは思えなくなってきた。日に日に成長し、じっと見つめると、それなりに美しいことに気づいた。
それからは、どんな風に成長し、どんな風に枯れていくのかということに興味が移っていった。主役はあくまでも白いツバキ。しかしながら、その雑草は主役を侵さない程度に場所を確保し、上へ横へと広がっていった。
やがて、秋になり、冬になるにつれ、その草は枯れていき、気がつくと茶色に変色し、ミイラ化していた。それからずっと、その草は鉢のなかで形を変えずに居座っている。
写真ではわかりにくいが、その草はどう見ても生き物ではない。しかし、命をまっとうした後の潔さを漂わせている。以来、その鉢植えは私の「作品」となった。
一方、ケヤキの盆栽「夕映え」は昨年より一週間も早い3月22日、1ミリ程度の小さな葉っぱを出してくれた。すでに春の到来に気づいたのだろう。高さ20センチほどだが、樹齢は20年を超える。堂々としたもんである。
(120325 第328回 写真は、椿と枯れた雑草)