霧につつまれて
神様に許されて、日光白根山に登ってきた。と書くと、
いかにも大げさだが、そう思いたくなるほドン
ピシャの登山時間を与えてもらった。前日まで雨、当日の朝も雨。一度は登山口へ向かったも
のの、金精峠を越える頃、あたりは濃い霧に覆われ、大粒の雨が降ってきた。これでは絶対登れないと判断し、きびすを返して道路を下り、竜頭の滝あたり
まで戻った頃、いきなり晴れてきた。
えーい、ダメでもともと、とにかく登山口まで行ってみようと思い、再びきびすを返した。すると、なんと雨があがったのだ。
前回、白根山に登ったのは、2008年10月。そう、忘れもしない、密かに「カズオ事件」と呼んでいる事件が勃発した、あの日以来である。
あのときも朝から雨が降り、途中から霧がたちこめてきた。そして、私は淡谷のり子じゃなく、あわや死にそうになったわけだが、あのときの恐怖がまだ体にしみ込んでいるらしく、途中、霧がたちこめてくると、少しずつ恐怖感が増してきた。
「あんなことをされてもヤツと山に登るんだから、高久さんも相当の変わりモンだな」
と、変人扱いされる始末である。
白根山は思いの外、足場が悪く、ロープや鎖が万全ではない。頂上にたどり着いたときはかなり霧に覆われ、視界は遮られていた。本来であれば頂上当たりでのんびりしたかったのだが、いそいそと下山することにした。
下山すると、間もなく雨が降ってきた。まるで、天上から神様が見ていたかのように。
それにしても山はいい。もっと若い頃から登っていればよかったと悔やまれる。
どうしてそんなにいいのかというと、「無」になれるのがいい。ふだんの生活で、「無心」になれるときはそう多くない。人によっては、皆無といっていいだろう。特に、経営をしている人は、例外なくそうだろう。無心どころか、心の中は煩雑きわまりないはずだ。うまくいってなければもちろんのこと、うまくいけばいったで、いろいろ煩わしいことがたくさんある。もちろん、それはそれで愉しいのだが……。登山は、そういった諸々の煩わしさをいっとき忘れさせてくれる。
今年は、今までになく人の生き死にについて深く考えた。どうして人は生まれてくるのだろう。そこに意味はあるのか。何をなすべきなのか。どう生きれば、生をまっとうしたことになるのか。そもそも自分はどう生きたいのか、あるいはこのあたりでカズオさんを見習うような生き方にシフトチェンジすべきか?……。もちろん、答えが見つかるはずもない。
そこではたと気づく。そういうことを考えること自体に意味があるのだと。だって、そういうことを考えること自体、それはそれで愉しいもの。
(第371回 写真は、日光白根山頂上にて。まわりは霧)