東日本大震災と「裸虫」の生態
東日本大震災から12年たち、記憶はだんだん薄れていくが、やはり文学の力は強い! とあらためて思わされた。ニュース媒体の記事を読み返しても過去の出来事としかとらえられないが、この本に収められた6編(文庫版は7編)を読むと、その当時、この災害に直面した人の心の様子がわかる。文学は出来事の表層ではなく、人の心に切り込んでいるため、どれだけ時間が経とうが摩耗しない。
この本に収められた短編のいずれも秀逸だが、特に印象的なのが『アメンボ』。原発事故によって放出された放射能によって、幸せな家族が引き裂かれるというテーマである。
放射能に脅える妻は、わが子のことを考えて娘を連れて北海道に移り住む。久しぶりに福島に戻り、友人や夫と再会するが、家族が元どおりになることはない。故郷で生活する友人に合わせる顔がないと仮面をつけるシーンは、ゾクッとするほど怖い。
父と娘が離れ離れになることについて、著者は語り手を通して、
――直樹(父)が美夏(娘)の手を引いて数メートル先を歩く。この父娘を引き裂こうとする力がいったい何なのか、どう考えても分からなかった。
と書く。
このくだりはコロナ禍中、流布するデマなどによって関係が破綻した夫婦、恋人、親子、友人関係を彷彿とさせる。
もともとの動機は「心配してあげているのに」という「善」であったはず。しかし、一方では「どうしてそんなことを信じているのか」と呆れる。互いに言いたいことを言い、溝は深まっていく。
じつは人間にとって最も恐ろしいのは「見えない何か」なのだろう。放射能もデマも、オバケもそのひとつだ。
ほかに『蟋蟀』『拝み虫』『東天紅』(文庫版のみ収録)も好きだ。
最後の作品『光の山』は著者のブラック・ユーモア(?)がみごとに生きる快心の作。
――ほら、押さないで。一刻も早くたくさん浴びたい気持ちはわかるが、何事も譲り合ってな。
ホーシャノーを浴びるツアーを描いたSFのような設定。風通しのいいこの作品で終わっているため、読後感はスッキリ。それなのに深く考えさせられる。
お見事、です。
ところで、「あとがき」によると、当初、著者はタイトルを『裸虫』にしたいと思っていたらしい。裸虫とは、羽も毛もない虫、つまり人間のこと。たしかにこの短編集には虫の名を冠された作品がいくつかある。しかし編集者が納得せず、『光の山』となった。
たしかに、それも悪くはないが、裸虫の方が断然イイ! と私は思う。
このエピソードは、レナード・バーンスタインがある曲の解釈をめぐってソリストのグレン・グールドと意見が合わず、わざわざ演奏前に「これは私の本意ではない」「いったいクラシックの演奏において、ソリストと指揮者のどちらがリーダーなのか」と聴衆に問いかけたあの珍スピーチを思い出してしまった。
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