死体を見つめてたどり着いた死生観
人は自分の死について、四六時中深く考えることはしない。日常に忙殺されてそれどころではないという事情もあるだろうし、考えてもわからないことをあえて考えないということもあるだろう。
しかし一方で、自分が死ぬときはどんなふうなのかと畏れを抱いたことがない人はいないのではないか。
深い霧の向こうに必ず死はあるのだが、ただ見えないだけなのだ。死につながる道は厳然とあり、あらゆる生き物はひたひたとその道を歩んでいる。
本書を読んで、霧の向こうの「死」がおぼろげながらではあるが見えたような気がした。少なくとも、自分なりの死生観を考えるきっかけを与えてくれたことはたしかだ。死と生は表裏一体の組み物であり、死について深い考察がなければ、深い人生もまたないといえる。
作者の青木新門は、生活苦からやむなく納棺夫になる。たまたま夫婦喧嘩の際に、求人広告を見てしまったことがきっかけで。
納棺夫とは、死体を湯灌し(アルコールで体を拭く)、仏衣という白衣を着せ、髪や顔を整え、手を組んで数珠を持たせ、納棺するまでの作業をする人をいう。きれいな死体ばかりではなく、腐乱死体や原形をとどめていないものもある。硬直してうまく白衣を着せられない場合もあるし、体が大きかったり曲がったりしていてうまく納棺できない場合もある。毎日多くの死体と向き合うことを余儀なくされる仕事である。
仕事を続けるうち、作者の死体に対する恐怖や嫌悪感は徐々に消えていく。しかし周囲の人たちはちがう。子供にミルクを買うお金がないからとにかく仕事をしてほしいと懇願されていた妻には、夜、体を求めると、とっさに「穢らわしい、近づかないで!」と拒否され、日頃疎遠だった叔父が突然訪ねてきて、「おまえは一族の恥だ、もしその仕事を辞めないのであれば絶縁する」とまで罵倒される。いずれも死体を忌む観念が背景にある。
しかし、作者は淡々と仕事を続け、死生観が変わっていくのを感じる。死後、数ヶ月が経ち、蛆に内臓を食われている老人の死体に接しても、蛆の生命に思いがいってしまうほどに死生観が研磨されてくるのである。やがて、たどりつく境地を次のように活写する。
――毎日毎日、死体ばかり見ていると、死者は静かで美しく見えてくる。それに反して、死を恐れ、恐る恐る覗き込む生者たちの醜悪さ……。
生と死への深い考察がここにある。
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