唯一無二、人生の指南書
こういう時勢だから、あらためて『論語』を読んでみたいと思う人も少なくないだろう。問題はなにを読むか。なにしろ『論語』に関する本は数え切れないほどある。
私のイチオシは上掲の『仮名論語』。以前、このテキストを用い、仲間たちと2年間ほど勉強会を続けた。
『論語』は孔子と弟子たちの問答を、後に弟子たちがまとめた言行録であり、紀元前500年前後に編纂されたとされる。
記録によれば、孔子は幼い頃に父親を亡くし、母親の手で育てられた。若い頃はパッとせず、晩年になるまで芽が出なかった。73年の生涯のなかで、孔子が輝いたのは最後の十数年間だった。しかし、だからこそ孔子の言葉にはリアリティがある。平凡な人間がどのようにして世界三大聖人に数えられるまでになったのか。煩悶と呻吟の集積、いわば自らの経験に培われた〝生きた知恵〟がこの書物には凝縮されている。
たとえば「己の欲せざるところは、人にほどこすべからず」(自分がいやだと思うことを、人にしない)、「利によりて行えば、怨み多し」(自分の利益だけを考えて行動する人は、まわりから疎まれる)、「三人行けば、必ずわが師あり」(3人集まれば、必ず模範になるような人がいる)など、だれもが納得できる人生の処世訓がぎっしりつまっている。仏教とは異なり、現世と欲望を否定していない。「富と貴とは、是れ人の欲する所なり」と言い、富を得ることも名誉を求めることも肯定している。これだけをとっても、『論語』が単なる理想論ではなく、リアリズムに裏打ちされていることがわかる。
人間がほかの動物と異なるところはいくつもあるが、ネガティブな面の代表は、悩むということだろう。悩みがまったくない人間などいない。
なぜ悩むのかといえば、高性能の脳をもってしまったからにほかならない。弱肉強食の厳しい生態系のなかで生きざるをえない動物は、人間の目には哀れに映るが、彼らに悩みなどない(にちがいない)。自分がおかれた境遇を受け入れ、ただ命をまっとうするだけである。
生涯、悩みや心配ごとと無縁ではいられない人間は、だからこそさまざまな対処法を生み出した。宗教はその最たるものであろうし、思想・哲学もそうだ。禅は、自分が直面している境遇に対しどう解釈し、どうやりすごせばいいかという、心のあり方を整えるための方法論、いわば受け身の対処法といえる。
ここで取り上げる「論語」をはじめとした儒学は、悩みや心配ごとがなるべく少ない人生を送るための処世訓ともいえる。悪い事態にならないようあらかじめ手を打つという、積極的かつ戦略的な対処法だ。なぜなら、人間の悩みの大半は人間関係に起因している。人間関係をうまくコントロールする術が身についていれば、おのずと悩みも少なくなる。人間関係以外の悩みは経済的なことか健康に関することだが、これも人間関係さえうまくいっていれば対応できる場合が多い。
スクランブル交差点を想像してほしい。多くの人がさまざまな角度から交差点を渡ろうと歩き始める。一定の時間で赤信号に変わるから、のんびり歩くわけにはいかない。もし、全員が自分のことだけを考えて歩いていたら、あちこちでぶつかり合い、ケンカが始まるだろう。そうならないよう、相手の動きを読み、進路を変えたり速度を変えながら目的の場所へ移動する。
人間社会においても同じことがいえる。自分さえ良ければ、という考え方で行動すれば、必ず揉めごとになり、やがて孤立する。こういう事態は本人にとっても社会にとってもマイナスだ。孤立する人が大勢いる社会は活力を失い、皆が貧しくなる。徳川家康が儒学をもって国を治めようとしたのも、「人間関係が円滑な社会はいい社会」と思ったからだと思う。
『論語』で説かれていることは、どれも当たり前のこと。しかし、それがわかっていて実行できないのもまた人間の本性だ。いちいち意識しなくても実行できるようにするためには、自家薬籠中のものにしなければならない。一度、自転車の乗り方を覚えた人は、そのつど意識しなくてもバランスがとれるようになるのと同じように。
しかし、ここがおもしろいところだが、文句のつけようのないほど優れた内容だからこそ、欠点になりうるともいえる。
儒学、とりわけ朱子学は、たびたび時の為政者に利用されてきた。為政者からすれば、きわめて都合のいい内容になっている。なぜ、儒学が薬にも毒にもなるのかといえば、人間そのものが不完全だからだろう。理想的と思えた共産主義社会が実現すると、残虐な抑圧が待っていたのと同様、原理的な理想を掲げる思想は要注意だ。
とはいえ、『論語』を活用しない手はない。老荘思想や禅、さらには西洋的なプラグマティズム(実用主義)など、物の見方が異なる思想と組み合わせて自分なりに活用できればこれ以上のテキストはない。
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