人間の業を炙り出す文学の力
読書に関しても音楽や美術同様、雑食を旨としているが、客観的に自分の読書傾向を眺めると、日本の近代文学が異常に少ないことがわかる。おのずとこのコラムで取り上げた作品も少ない。泉鏡花の『外科室・海城発電』、樋口一葉の『にごりえ・たけくらべ』、幸田露伴の『五重塔』、谷崎潤一郎の『痴人の愛』『刺青』、川端康成の『眠れる美女』『山の音』くらい。あとは時代を下って井伏鱒二の『山椒魚』、深沢七郎の『楢山節考』、斎藤茂吉の『赤光』がせいぜい。
日本の現代文学は好んで読んでいるのに、なぜ? しかも、あの夏目漱石作品がひとつもないというのは我ながら驚きである。主要な漱石作品は読んでいるのに……。芥川龍之介や太宰治もない。見方を変えれば、日本の近代文学は私にとって未発掘の宝の山ともいえる。
あるデータによれば、新潮文庫版の『こころ』は、2016年時点で発行部数718万部を記録している。文庫と全集を合わせると、なんと2000万部(1994年時点)を超えるという。これだけをとっても、国民的作家と呼んでいいだろう。
本書の主人公「私」は夏休み、鎌倉の由比ヶ浜へ海水浴へ行き、そこで「先生」と出会う。その後、東京に帰ったあとも先生の家に出入りするうち、「私」は「先生」が心の裡になにやらドロっとしたものを蔵し持っていることに気づく。
やがて「私」は父の見舞いに帰省し、そこへ「先生」から分厚い手紙が届く。そこには「先生」の懺悔ともいえる過去の出来事が綴られていた。信頼していた人に裏切られ、また自分も友人Kを裏切ってしまったこと。それによってKを自殺へ追いこんでしまったこと。
「先生」は心の裡にあったものを手紙に吐き出すが、どうしても慚愧の念は拭いきれない。そして「先生」は……。
だれにも心の奥底になんらかの慙愧の念を蔵し持っている。数十年生きて、そういうものがなにもないとしたら、その人は本気で生身の人間を生きてこなかったともいえる。また、ほとんどの人がそれを直視しないで生きられるのは、防衛本のなせるわざであろう。
文学の役割は、ふだん心の裡に閉じ込められている慙愧の念を表に炙り出すことかもしれない。それを見つめることはけっして心地良いものではないが、心に蓋をしたまま死ぬのは嫌だと思うのも人間の業である。
そのあたりの心の機微を本作品は突いている。『こころ』というタイトルは、じつに的確である。