納戸で息をひそめていた小磯良平
数回前の本コラムに、神戸の小磯良平記念館を訪れたことを書いた。
それから、なんとなくだが、私の内部で蠢いているものを感じた。小磯良平のなにかを持っていたような……という微かな記憶。
やがて思い出した。『Japanist』の取材がきっかけで、ある画家から小磯良平のリトグラフをもらっていたのだ。当時は小磯良平の凄さがいまいちわからず、「肉筆じゃないから」という感じで、当時の宇都宮の自宅の納戸にしまったのだった(いま思えば、小磯良平の肉筆画をぽんとくれる人などいるはずもないが)。納戸から取り出したのが、『婦人像』であった。
すごい!
まるで生きているかのような存在感のある絵。まじまじと見れば、顔以外、あまり描き込まれていない。なのに、モデルの女性の心中まで見透かしているかのような圧倒的な表現力。これは放っておけないと思い、すぐ現在の自宅に連れてきた。
写真はそのものを正確に写し取ることができると思われている。しかし、そうだろうか。場合によっては、絵画の方が内面に潜む本質を伝える力があるのではないか。特に人物画は、写真では十全に伝えきれないものがある。
なぜだろうと考える。写真は目の前の対象物を〝機械的に〟写すだけだが、人の手によれば、そのものの核となるもの以外を恣意的に省くことができるからではないか。その結果、省いた以上の〝なにか〟が表出することがあると(もちろん、写真においても作家ならではの表現力を活かせる余地はじゅうぶんにあるが)。
そういうサプライズに出会いたくて、美術館通いを続けているのだが、小磯良平の作品はそういう魔力を秘めている。
(250427 第1269回)
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