命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人
『Japanist』に連載中の「偉大な日本人列伝」で、山岡鉄舟について書いた。
田口佳史先生のご講義でもたびたび取り上げられているので、その激烈な人物像はある程度理解していたつもりだったが、原稿のために資料を読み込んでいるうち、あらためてその偉大さに感銘を受けた。
浅利又七郎、徳川慶喜、西郷隆盛、清水次郎長、滴水和尚、明治天皇……。山岡鉄舟がその生涯に深く交わった人物を思いつくままに並べたが、これだけで鉄舟の懐の深さ、人物の大きさがわかる。慶喜や明治天皇にも臆せず諫言し、俠客・次郎長を手玉に取るなど、だれに対してもまっすぐに向き合い、やがては心服させる人間力の大きさは、まさに日本の歴史上、希有といっていいだろう。それができたのは、その時々、一瞬一瞬を命がけで生き、剣術、禅、書によって心・技・体を最上級のレベルで結実させたからだ。
少年期の鉄舟に特筆すべきことがある。15歳にして、早くも自分の生き方を戒めるための『修身二十則』をつくり、その後、それを背骨として生きていく。
若い頃の鉄舟の稽古は〝狂気の沙汰〟とも言うべき烈しさだった。十数人もの屈強な相手と一日200面を一週間連続でこなしたというエピソードもある。ある程度の勝敗がつくまでの一面を約3分とすると、約10時間ずっと真剣勝負の稽古を続けるのだ。相手は入れ替わるが、受けてたつ側は鉄舟のみ。その間、昼食のためにわずかな時間を休む以外、ずっと闘い続ける。相撲さながらの体当たりや、わざと喉を狙った突きなど、文字通りボロ雑巾のようになっても、けっして降参しなかったという。
鉄舟の大仕事はいくつもあるが、なんといっても特筆すべきは、西郷隆盛との直談判だろう。
鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸に逃げのびた慶喜は朝廷に対して恭順の意を示すが、幕臣の多くは徹底抗戦を主張する。一方、西郷を参謀とする新政府の東征軍は江戸総攻撃のために東進し、小田原あたりまで迫っていた。
慶喜の意思をどうやって西郷に伝え、江戸城総攻撃を止めさせるか。江戸が火の海になれば、無辜の民が被害に遭い、さらには全国各地で内戦が勃発し、西洋列強の介入を許すことになるのは必定だった
そこで勝海舟の推挙により、鉄舟が駿府に陣を張る西郷に対し直談判することになる。
しかし、多摩川近くまで行軍してきた官軍の中をどのようにして進み、西郷と面会することができるのか。途中で斬り殺される確率が高いと予想されたが、鉄舟は薩摩出身の益満休之助とともに西へ向かう。
いよいよ官軍で埋め尽くされた街道を突破するとき、鉄舟は腹を据えた。
「朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る」と大きな声を発しながら、敵陣の中央を堂々と進んでいった。裂帛の気合いに気圧された敵軍兵士は道を開け、ついに鉄舟は西郷と直接面会することに成功する。
慶喜恭順の意を伝えた鉄舟に対し、西郷が江戸総攻撃中止のための条件として五つをあげた。江戸城を明け渡し、城中の人を向島へ移し、兵器・軍艦を放棄し、慶喜を備前へ預けるというもの。
鉄舟は、慶喜を備前に預けることだけは承服できないという。そうなれば徳川恩顧の臣が反発して戦争になり、その結果、数万の命が絶たれ、江戸は火の海になる。それは朝廷の意思とは異なるであろう、と。
しかし、西郷も「朝命なり」と頑なに拒むばかり。鉄舟もひかず、こう言った。
「もしも慶喜が先生(西郷)の主人島津公で、先生がこの鉄太郎の立場にあったならば、朝命を奉戴してご主君を差し出し、安閑として事を傍観されるか」
その言葉を聞いた西郷は、しばし瞑目した後、こう答えたという。
「先生(鉄舟)の説はごもっともである。徳川慶喜殿のことは、この吉之助が引き受け申した」
胆力と胆力が切っ先を交え、やがて了解するという大人物同士ならではの談判により、江戸が、いや、日本が救われた瞬間だった。教科書などでは勝海舟と西郷の会談の様子が紹介されているが、それは鉄舟と西郷の間に合意ができていたからこそ実現したものである。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困りもす」とは西郷が鉄舟を評した言葉である。蛇足ながら、当時、官軍の総大将だった西郷はその後、賊軍となって自刃することになり、賊軍だった鉄舟は明治天皇の侍従として警固や教育係を担った。
明治21年、死期を悟った鉄舟は白衣で座禅を組んだまま、大往生した。
臨終近しの報を受けた明治天皇は、遣いを鉄舟に向け、惜別の言葉を下賜した。
「山岡は、よく生きた」
過日、日暮里にある全生庵を訪れた。幕末〜戊辰戦争において命を落とした同志たちを弔うために鉄舟がつくった寺である。その一角に、鉄舟は眠っている。
近よらば広大無辺かたちなし 離れて見れば大木のごとし
(121224 第389回 写真は、山岡鉄舟の墓)