喜望峰のその向こう
帰国以来、書き綴ってきたアフリカ紀行も今回で最後。書こうと思えば、あと10回分くらいのネタはあるのだが、いつまでもアフリカのことを書いていては頭がすっかりアフリカ人になってしまうので、このあたりでピリオドをうちたい。
アフリカ大陸最南端の喜望峰へ行った。英語では「Cape of Good Hope」。それを喜望峰と訳したのは誰か知らないが、いい訳名だ。
ウィキペディアによると、次のように記述されている。
「1488年 、ポルトガル人バルトロメウ・ディアスが到達したものの、周辺があまりにも荒れる海域であったため、Cabo Tormentoso(嵐の岬)と命名。しかし、この航路の発見は香辛料貿易のルート短縮につながったため、後にポルトガル王ジョアン2世が「希望の岬」(Cabo da Boa Esperança)と改めさせている。1652年 、オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックが植民、後のケープタウンとなる。当時、周辺に居住していた先住民族はホッテントットとオランダ人から呼ばれたが、現在はコイコイ人と呼ぶ。1806年、 ナポレオン戦争中にイギリスが接収し、1814年の英蘭協定でイギリス領となる」
な〜んだ、希望の岬という名の由来は香辛料貿易によるのかと落胆したが、それでもいい名であることに変わりはない。
最南端の岬に着くや、一行は記念写真撮影の列に並んだが、私は形のいい石を探してあたりをウロウロした。なんといっても、特別な場所の石は「おみやげ」になる。10個ほど拾い集めて満足だった。帰国後、「喜望峰の石 FEB.2013」とパソコンで小さな紙片をつくって石に貼り、喜んでもらえそうな人に手渡した。もちろん、そういう物に価値を見出している人にしか喜ばれないが、案外いいものである。
ツアーの最終日、ウォーターフロントという商業施設で「おみやげを買う」という時間が設けられたが、おみやげを買うという習慣のない私は所在なく広場を歩き回り、7人によるパーカッションバンドに出くわした。3拍子を2回繰り返し、2回目の頭は巧妙なシンコペーションが入る独特のリズムは、盆踊りのリズムが遺伝子に組み込まれている日本人にはきわめて難解だが、それだけに血が騒いだ。未知の体験は、ワクワクさせてくれる。気がつくと、「おみやげを買う時間」がもうすぐ終わるところだった。
なぜ、私がおみやげを買わないかといえば、買うべきモノがないからだ。そもそも、どこにでもある大型商業施設にあるようなモノは、日本で買った方がいい。きちんと確かめずに買えば、Made in China ということだってありえる。でも、同行していた皆さんは律儀というか、「さあ、今から○時までがおみやげを買う時間ですよ」と添乗員から言われると、ちゃんと買っているからスゴイ。
南アフリカ独特のおみやげといえば、地元の工芸家による木彫りの人形もあげられるが、日本人の緻密な手業をつぶさに見ている私としては、どれも笑っちゃうくらい稚拙なシロモノ。タダであげると言われてもいらない。荷物になるし、自分の生活空間に置いて、いっしょに生活したいとは1ミリほども思わない。結局、おみやげを買いたくなる条件がまったく揃わないのだ。
今回の10日間で、あらためてカズオさんの懐の深さを知った。まさに名前のごとく、「和の男」なのだ。朝起きてから夜寝るまでずっと一緒。ふつうであれば、絶対に鬱陶しくなるはずだ。しかし、彼といてもまったく心の負担がない。ときにシリアスな話をし、ときにバカな話で笑う。私のわがままを諫めるわけでもなく、笑ってやり過ごす。同行していた人たちとも彼はすんなり溶け込んでいた。ときどき、夜中に途方もなく大きな声で寝言を言うので睡眠を邪魔されたこともあったが、じつに不思議な「大社長」である。結局、人は名前の通りになっていくのだろうか。だとすると、親の責任は重大だ。最近は「星の王子様」などというバカげた名前をつける親もいるというが、その子がこれからどれほどバカにされるかと思うと、その親の傲慢さに呆れ果てるのである。
アフリカ……。人類発祥の地であり、最後に残された未開発の地。
これからアフリカはどのように変わっていくのだろう。極端な貧困、病気、失業率、部族間の争いなど、課題は山積している。それらを解決する術を人類はもっているのだろうか。私の見方は、かなりネガティブだ。
そもそも、解決の必要性があるかどうかも考えものだ。第一、彼らを憐れむ資格がわれわれにあるのだろうか。もしかしたら、「ヒト」という生き物に生まれ、それを無為自然にまっとうしているのはアフリカの民なのかもしれない。
(130310 第407回 写真は、ケープポイントから見た、アフリカ大陸最南端・喜望峰)