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紺碧の将

自分の人生を生ききった下村観山

2013.12.13

観山絶筆 横浜美術館で開催されている下村観山展では久しぶりに唸らされた。

 もともと岡倉天心とともに北茨城の五浦へ都落ちした一派のなかでも大好きな画家だった。横山大観と並び称されることが多いが、私はどちらかというと観山の方が好きだ。

 今回の見所は、彼の一生を俯瞰できること。11歳の頃の作品から、死の直前に描いた作品まで、下村観山がどのように自分の画境を開拓し、どのように熟成させ、どのように終着点にたどり着いたかがわかる。

 観山の絵画修業は、9歳の頃から始まる。中国の故事を題材にしたものや、自然をモチーフにしたものなどを狩野派特有の線描で何枚も何枚も描いている。いわば、基礎を固めた時期だったのだろうが、すでに老成している観があった。

 やがて、天心と出会い、日本美術の新境地を拓かんとさまざまな画風に挑むが、なんといっても際だっているのは、ある特定のスタイルを極めたというような技術的なことではなく、「目に見えないもの」の描写が卓越しているということ。天心は弟子たちに抽象的なテーマを提示し、感性と技術の両方に磨きをかけることを重要視した。例えば、清麗、温和、豪放、流麗、沈着などといった言葉を与え、その言葉のイメージを自分なりに消化し、絵画で表現することを求めた。仕上がった作品を前にして、「音が聞こえない」「火が燃えていない」「風が流れていない」などと叱責したこともしばしばだったという。

 観山の作品には、ただ目の前にあるモチーフを描いたというものを超えた空気感がある。だから、観る者をとらえて離さないのだろう。

 絶筆となった『竹の子』は病床に伏しているとき、友人からお見舞いに送られた竹の子を描いたものだが、竹の子や籠の線など、いささかの衰えも見せていない。しかし、これを描き上げた8日後、帰らぬ人となった。揮毫をする際、もしかしたら、これが最後の作品になるのではないかと思ったかもしれない。そう思いながらこの作品を見ると、人間の一生の長大な物語が透けて見えてくるのである。

 

横浜景観 ところで、横浜美術館の前に大きな建物が立っていて驚いた。MARK IS という商業ビルで、それ自体は目新しいことはないのだが、外観のデザインに惹かれた。右写真のように、大きなプランターをいくつも設け、植物を効果的に使っているのだ。もともと、みなとみらいは自然発生的にできた街ではないので大木もなく、人工的な感じは否めないが、こういうことのひとつひとつが表情を変えていくのだと思う。都市デザインのあり方として、横浜のこのエリアはかなり先進的だ。

(131213 第473回 写真は下村観山の絶筆となった『竹の子』と横浜美術館前のMARK IS みなとみらい)

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