だれにも光と影がある
NHKの大河ドラマの影響か、吉田松陰が人気らしい。
私は、NHKの大河ドラマは見ない。NHKの歴史番組はかなり極端な色づけがなされていることが多く、あまり信用していないからだ。
特に大河ドラマは、「いい人」か「悪い人」にはっきり区分されていることが多く、浅く、稚拙な、そして恣意的な歴史解釈に失望し、ときに憤慨することが多かった。見なくなってから数年がたつが、それでよかったと思っている。
さて、吉田松陰はどのような人物として描かれているのだろうか。
私は完全無欠の、いわゆる聖人君子は、古今東西一人もいないと思っている。もし、いたとしたら気味悪い。完全な政治や芸術がありえないのと同じように、完全な人間などいないのだ。だからこそ、面白いともいえる。正解がないものの魅力はそこだ。にもかかわらず、誰かの恣意的な評価によって白か黒かを判断されては、歴史上の偉人たちも困惑するばかりだろう。
例えば、徳川家康は政治の天才だ。事実、250年以上におよぶ、長い平和な世の中の基盤をつくった人だ。その功績は筆舌に尽くしがたい。
しかし、争乱のない江戸時代にも影はあった。なにより、身分が固定されていたので、自由度が極めて少なかった。職業選択の自由は人間の幸福度と大きく関わってくる。それがはじめから否定されているのだから、せっかくの天分を発揮できないまま人生を終えた人は数え切れないほどいただろう。
鎖国は戦のない世の中をつくるうえでじつに効果があったが、反面、食料確保において国民に大きな負担を強いた。江戸時代、ほとんど人口が増えなかったのは、「増やす余裕がなかった」からだ。江戸の天災の記録を見るとわかるが、地震、洪水、大火、飢饉、台風、火山噴火など、自然災害があるたびに夥しい人が死んでいる。特に飢饉がある年はひどかった。田畑の面積が限られていて、輸入もできないわけだから、そうなってしまうことは自明の理だ。それでも、徳川政権は「平和であること」を選んだ。いつの世も、平和には大きな代償がいるのだ。現に、スイスがはらっている代償は日本のエセ平和主義者には想像もできないほど苛烈だ。
吉田松陰は私も好きな偉人だが、私は彼を潔癖な聖人君子とは思っていない。ひとことで言えば、激烈な革命指導者だと思っている。
たとえば、彼の著述に次のような外交戦略が書かれている。
——北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州、台湾、フィリピンを領有するべきだ。
これだけを読む限り、松陰はかなり好戦的と見るべきだろう。昭和の軍部は、松陰の外交戦略をそのまま実行したかのごとくだ。ちなみに、昭和の軍部がやったことは大半が愚の骨頂だが、すべてが悪かったわけではない。そういう冷静な目をわれわれ後世の人間は失うべきではない。
では、なぜ、松陰はそれほどまでに過激な外交戦略を抱いていたのか。
危機感だろう。西欧列強に飲み込まれてしまうという、激烈な危機感。
だからこそ、平和ないま、当時の国際情勢を考慮しないまま、松陰の外交戦略を非難するのはフェアではない。『留魂録』に書かれているような覚悟を、20代の若者がもっていたということ自体、われわれの観念とまったくちがう次元で生きていたことがわかる。
え? どう見ても若者に見えないって?
そうだよね。この肖像画、どう見ても60代か70代。
おそれいりました。
(150315 第548回 写真上は吉田松陰肖像画、下は『留魂録』の原稿。いずれも松陰神社所蔵)