〝お母さん〟の愛
久しぶりに家族で旅行をした。就職を来春に控えた娘に、「リゾートでも行こうか」と訊くと、「知覧へ行きたい」と返ってきた。娘が子供の頃は国内外のリゾートホテルを巡るのが楽しみだったのだが、思春期になって以降、そうすることもなくなった。久しぶりにのんびりしたいと思っていたのだが、思わぬ答えに「!」というものがあった。なにしろ私は中学か高校の修学旅行は知覧へ行くべきだと思っているのだから。政治思想やその他の諸々のこととは関係なく、なんの説明もせず、ただ見てもらえばいい。わずか70年ほど前の日本の若者の姿を。自分ではどうすることもできない圧倒的な理不尽な宿命を前にして、どう思い、どう覚悟を決め、死んでいったかを。
案の定、娘は膨大な遺書に釘付けとなった。
翌日、当時、出撃する特攻隊員たちの母親代わりをしていた鳥濱トメさんの資料館を訪ねた。トメさんは軍の指定食堂だった富屋食堂の女主人だった。
どんなに勇ましいことを言っていても、隊員たちはまだあどけない若者だ。もうすぐ終わる自分の命、故郷に残してきた両親や兄弟、そして許嫁や新婚の妻、まだ見ぬわが子などを思い描いて、いったいどれほどの煩悶を繰り返したことだろう。
そういう彼らにありったけの愛を注いだのが鳥浜トメさんだ。
トメさんへのインタビューにすべてが込められていると思った。遺書ではわからない、若者たちの気持ちが。なかでも胸を打たれたのは、最後の餞に「食べなさい」といろいろ食べ物を出すトメさんに「食べ物が喉を通らないんです」と言って呻吟する隊員の姿だ。これが真実だったにちがいない。体は食べ物を求めているのに、恐怖のあまり食べ物が喉を通らない。翌日、彼らは狭い密室のなかで操縦桿を操り、南の海へ散っていった。
子犬を抱いて無邪気な笑顔を見せる若者にも胸を打たれた。目の前の小さな命を見つめながら、彼らは自分の運命をどう思っただろう。それこそ「犬死に」にしないよう、あらんかぎりの力で心を奮い立たせ、自分が死ぬことへの意義を見出していたにちがいない。「残された日本人のために、死ぬ」と。
トメさんはこうも語っている。
「極楽へ行こうとしている人たちばかりだからのぉ、もうとっても優しいの」
「できることならみんなのお母さんになりたかったの」
若き日の石原慎太郎氏がトメさんと一緒に写っている写真を見て、そういえば、石原さんがトメさんをテーマにした映画を作ったなあと思い出した。
『俺は、君のためにこそ死ににいく』。ずいぶん勇ましいタイトルだが、その写真を見て、石原さんを見なおした。日頃、傍若無人な態度はどうなんだろうと思っていたが、やはり彼は心があった人だ。
石原氏の言葉が石碑に刻まれていた。
──短い青春を懸命に生き抜き、散っていった特攻隊の若者たちが「お母さん」と呼んで慕った富屋食堂の女主人鳥濱トメさんは、折節にこの世に現れ人々を救う菩薩でした。
鳥濱トメさんは、まさに菩薩であった。
祖国のために死んでいった特攻隊員たちが今、天国から日本人を眺め、どう思っているだろうとも思った。「戦争法案反対!」「若者を戦場へ送るな!」と叫ぶばかりで、具体的に安全保障を考えない無責任な大人がこんなに増えてしまったことに。結局、言葉とは裏腹に、彼らは少しでも嫌なことは考えたくない、したくないという自己愛の塊に過ぎない。
戦争は誰だって嫌だ。では、どうすればそうならないかを真剣に考え、論じ、実行するのがまともな大人というものだろう。人類史において、非武装・中立の国が生き残った例はないのだから。
知覧へ行った日、その日見たことをテーマに家族で語り合った。命の大切さを大上段から語るより、ずっと意義深い時間だった。
「彼らの姿を見たら、どんな困難にも耐えられると思うだろ?」
娘に言った。
彼女はすかさず「うん」と言った。
それだけでじゅうぶんである。
(151129 第597回 写真上は鳥濱トメさんと特攻隊員たち。下は富屋食堂)