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紺碧の将

本質を見抜く目と悪ふざけ

2008.06.22

 なぜか興がのって2日連続で書いてしまう。

 ここ数年、浅田次郎がおもしろい。文学に芸術性しか求めない人は顔をしかめるかもしれないが、はっきり言って、この作家の筆力は現代の作家では群を抜いている。

 筆力とは?

 以前、誰かがその答えを書いていた。

「筆力とは、最初の一行で最後まで読ませる力である」。つまり、次へ次へと読み進むうち、気がついたら読み終えていた、というような文章。例は古いが、かっぱえびせんの「やめられない、とまらない」というような現象を起こさせる文章だ。

 そんなわけで最近は、好きな作家は? と問われると、バルザック、ヘミングウェイ、村上春樹、浅田次郎と答えている。ユゴーやデュマやスタンダールなど、19世紀フランス文学の代表選手としてのバルザック。スタインベック、フィツジェラルド、カポーティー、アーヴィングなど、20世紀アメリカ文学の代表選手としてのヘミングウェイ。そして現代の日本文学……という系譜は、そのまま私の読書遍歴と重なる。

 今日読み終えた浅田の『王妃の館』は、パリのヴォージュ広場にある超高級ホテルへの2組の日本人ツアーを話の骨格に、ルイ14世の世継ぎをめぐる喜悲劇が縦横無尽に交差する。後者の物語はとても情感たっぷりで、緻密な描写がなされているのに、日本人ツアーの描写はまるで活劇。ここまで悪のりしていいの? と驚くくらい、大胆かつ、ふざけている。たぶん、浅田は純文学をナメきっているのだろう。きちんと書けば書けるけど、それだけじゃつまらないとばかり、やりたいほうだいだ。小説に登場する岩波夫妻は頭がカチカチでいつも正論を言い、なにかとケチをつける。これはまさしく岩波書店の暗喩だろうし、そういう類のメタファーが満載なのだ。もちろん、誰が読んでもわかる程度に咀嚼されている。

 こういうシーンがあった。

 かつてサン・ジェルマン・デ・プレの裏町でともに生まれ育った幼なじみジュリアンが7年ぶりにマイエの店を訪ねる。ジュリアンは宮廷料理人として最高の栄誉を手にしているムノンの娘婿にして料理の継承人、かたやマイエはヴォージュ広場の一角でほそぼそと家庭料理店を営む市井のコック。立場は天と地ほども差がある。

「おまえも人が悪いな。黙って俺のこしらえた料理を食いにくるなんて。ひとこと言ってくれりゃ、もう少しマシなものを出したのに。何とも恥ずかしいこった。ヴェルサイユの料理人に、キャベツのスープなんぞ食わしちまった」

 旧友の突然の訪問に喜びつつ、マイエは戸惑いを隠せない。なにしろジュリアンは宮廷ナンバーツーの料理人である。

「お手並みを拝見するのには、これが一番さ。ブイヨンの味を確かめれば、料理人の腕前はたちまち知れるからね」

 ジュリアンはそう答えた後、「このブイヨンは濃厚なわりに臭みがなく、しかもきれいに澄み切っていた。レバーは使ってないのか」と訊ねる。ブイヨンを作るとき、レバーを一緒に煮込むと不純物が吸い取られて澄んだスープができるので通常はレバーを使うという前提のもとの質問だ。

 それに対し、マイエは答える。レバーは高価だし、どうしても臭みが残るだろう、と。

「では、どうやってアクを取るんだ」とジュリアンは畳みかける。

「卵の白身を使うのさ」

「卵?」

「ケーキを焼いた残り物の白身を泡立ててブイヨンに加えるのさ。そうすると、いったん鍋の底に沈んでから、アクをからませて浮き上がってくる。この方法だと臭みが残らないし、スープもきれいに澄むんだ。ま、貧乏なビストロの知恵だけどな」

 マイエは、安価で、臭みが残らない方法を編み出していたのだ。ジュリアンは感嘆する。

 マイエの料理の源は、ヴォージュ広場に建つ通称「王妃の館」に住むルイ14世の側室ディアナとその子ども(プティ・ルイ)への愛情にほかならなかった。2人は政争によってヴェルサイユを放逐され、つつましい暮らしをしていたのであった。ときどき、「残り物」と言って彼らに食事を届けている。

 このシーンには、料理というものの根本が描かれている。どんな形容詞をどれほど費やしても、ここまで料理の本質を描き出すことはできないだろう。そういう描写を悪ふざけの合間に書いてしまう浅田次郎という作家が、じつは私は恐ろしいのである。

(080622 第55回)

 

 

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