人の調和と武相荘
久しぶりに武相荘を訪れた。そう、白洲次郎と白洲正子が暮らした家屋である。
駐車場から竹林を抜けるアプローチ、ベントレーの格納庫、ショップ、カフェ&レストラン、ギャラリー「PLAY FAST」、ビデオ上映されている「能ヶ谷ラウンジ」などが新たに整備され、格段によくなっている。
今回あらためて感じたことは、次郎と正子が絶妙の関係だったこと。あの時代、出会うべくして出会った、究極のカップルと言っていいかもしれない。
それが敷地内のふたつの物に象徴されている。次郎が乗ったベントレーと庭のお地蔵様だ。おそらく、というか、確実に、お地蔵様は正子の趣味だろう(地蔵の近くには次郎の骨が分骨されている石仏立像もある)。
西洋と日本、陽と陰、ニヒリズムとインテリジェンス、先端と伝統……。とにかく、さまざまな二項が対立せずに調和をなしている。つまり、次郎と正子の際だった個性が絶妙に補完し合っているのだ。
時の総理大臣・吉田茂に招聘され、GHQと渡り合った次郎は、「従順ならざる唯一の日本人」と言われた。日本国憲法の草案を書いたハーバーディアンのチャールズ・ケーディスはかなり次郎に対抗意識を燃やしていたふしがある。
次郎は日本人で最初にジーンズを穿いた男でもある。マッカーサーが秘書を使って電話をしてきたときは、「電話くらい自分でしろ」と怒り、昭和天皇からの贈り物をマッカーサーに届けた時、「そのへんに置いてくれ」と言われたことに激怒し、「いやしくも天皇陛下から下賜された物をそのへんに置いてくれとはなにごとか!」とこれまた激怒したというエピソードもある。
第一線で活躍した後は町田市郊外の田舎に引っ込んで、「カントリー・ジェントルマン」を標榜し、気ままな生活を送った。その舞台が武相荘だ。
家族への遺言は「葬式無用、戒名不要」。生涯、「プリンシプル」を大事にした粋な男だった。
一方、正子は数々の著作でもわかるように、仏像、古寺、能、民芸など日本の伝統に根ざした文化に惹かれていた。器が好きでいながらずっと料理をしなかったというのもユニークだ。
人間同士、うまくいく組み合わせもあれば、いかない組み合わせもある。経営もそうだろう。ソニーの盛田と井深、ホンダの本田と藤沢を見てもわかるように、うまく補完し合う人間同士が組めば、大きな力に変わる。反対に、相手の力を削ぐような関係は破綻あるのみ。だれをパートナーにするかは重要な命題だ。
孫・白洲信哉氏の『白洲次郎の青春』には、次郎が英国留学時代、ベントレーを駆って南欧まで旅をした様子が描かれている。そのルートを信哉氏は新しいベントレーに乗ってトレースしている。
自分のたどった軌跡を、時を経て子孫がたどる。そういうことを孫にさせてしまうのは、次郎さん、やはり粋な男だった。
(160222 第617回 写真上は白洲次郎愛用のベントレー、下は白洲正子愛用?の地蔵)