文章は生き物
時を経て、なお生きているものがある。
文章もそうだろう。
例えば、いま、モーパッサンの短編集を読んでいるが、「二人の友」を読むと、普仏戦争当時、プロシア軍に包囲されている状況下、久々に出会った釣り仲間とパリ郊外へ釣りに出かけ、そこでスパイと疑われて捕縛される二人の男の心情が手に取るようにわかる。〝頭のてっぺんから足の爪先までぶるぶる震えながら〟死を待つ心境がわかるような気がするのだ。19世紀に書かれた文章が、いまなお輝きを失っていない。
そういうものの積み重ねが人類の財産となっているのだろう。
偉大な先達とは比べるべくもないが、不肖・私が8年前に書いた文章が、師・田口佳史氏の新著『人生に迷ったら老子』(致知出版社)に引用されている。『fooga』第90号の特集記事に掲載した文章である。田口先生の著書に拙文が引用されるなど、栄誉にもほどがある。私は果報者だ。
つねづね時間の経過に摩耗しない、本質的な文章を書こうと思っているが、言うは易し行うは難し。そう簡単にできることではない。しかし、書くべきテーマと出会い、自分のモチベーションが極限まで高まった時、それは可能になる。もちろん、そんなことは数年に一度あるかないかだ。
おそらく何者かが私に取り憑き、私の体を使って文章を書かせるのだろう。『fooga』第65号の中田宏氏特集記事もそうだったし、近著『扉を開けろ』もそうだった。そして、まぎれもなく田口佳史先生の特集記事もそうだった。
いま、あらためて読んでみて、自分の文章ながら、自分ではない誰かが、たまたま私の手足と頭を使って書いたのではないかという気がする。どうやってこれを書いたのか、と訝るほどに。
引用された部分は、田口先生の25歳のときのアクシデントについての描写である。その文章をここに掲載する。
その時、田口佳史はバンコク郊外ののどかな農村で記録映画の撮影をしていた。
水田の中にある農家の庭先で、少年が二頭の水牛を使って脱穀しているのが目に映った。和牛の二倍ほどもある、筋骨隆々の巨躯と猛々しい角に魅了され、その美しさをなんとしても撮りたいと思い、近づいた。
その時である。撮影機材に刺激されたのだろうか、ふだんは穏やかな水牛が、満腔の怒気を擁して突進して来たのだ。田口は、逃げるすべもなく角で右の腎臓を突かれ、空中に放り投げられた。体は裂かれ、背骨の一部を吹き飛ばされ、内臓が飛び出した。地面に叩きつけられても水牛の攻撃は終わることなく、再び他の水牛から背中を突かれ、放り投げられた。それまでののどかな風景が、修羅場と一変した。凄惨な血祭りは十五分ほども続いたという。
同行していた撮影クルーは、誰一人なすすべがなかった。内臓が飛び出してしまった人の処置をどうしていいのかわからず、茫然自失となっていたのだ。
しかし、不思議なことに、それほど体を切り裂かれても、田口の意識は冴え冴えとしていた。まるで月光のごとく、明瞭だったという。取り乱すことなく、破れたシャツの切れ端や稲わらなどが付着している自分の内臓を肉の破れ目から体内に戻した。
それからクルーたちは田口を車に乗せ、猛スピードで病院へ向かった。
「とても不思議だったのは、死が近づくにつれて意識が冴えてきたことでした。痛みも感じず、感覚はますます研ぎ澄まされ、見えないものが見えるようになってきたのです」
どういうものが見えてきたのですか、と問うと、おかしな話と笑われるかもしれないけれど、と前置きした後、こう続けた。
「突如、白髪の老人が目の前に現れ、私たちは会話を交わし始めました。会話の内容は一字一句明瞭に覚えていますが、いわゆる黙契を交わしたわけですので、内容については口が裂けても言えません。話の決着がついた瞬間、田んぼの中からパトカーが現れ、スピード違反で捕まってしまいました。しかし、それで助かったとも言えます。事態を知ったパトカーに先導され、短時間で病院へ搬送されたのですから」
たどり着いたところは、シリラ王立病院。
しかし、駆けつけた医師は、田口の体を見るなり、治療を拒否した。手のほどこしようがない、と見たらしい。
幸運だったのは、同行していた通訳のタイ人が医師を説得してくれたことだ。「この人は外国人だ。必要な手当をしなければ外交問題になるぞ」と脅しにも似た口調で医師を説得し、止血やレントゲン検査などの必要な措置をとらせた。
それから間もなく、田口は意識を失う。
「意識を取り戻したのは三日後の夜でしたが、それからの十日間は生死の境を彷徨っていたのだと思います。『あの世』もかいま見ました。一面咲き乱れる色とりどりの花々が青空の下、どこまでも広がっている。ぽかぽかと暖かい陽気まで感じました。しかし、なんとか峠を越し、もしかすると助かるかも知れないと思い始めた頃から急に死の恐怖が襲ってきました。自分は死ぬと覚悟していた時はそういう恐怖はなかったのに、生きられるかもしれないと思った途端、死が怖くなったのですから、不思議ですね。とにかく死ぬのが怖かったのです。目を瞑り、このまま眠ってしまったら二度と目を覚まさないのではないか、と考えただけで恐ろしくなり、一晩中起きていようとしていました」
何度も死を宣告されたが、その都度蘇生した。田口の全身全霊が「生きたい」と希ったのだろう。
検査の結果、左側の腎臓など内臓や背骨の損傷、左脚の機能不全などが判明したが、驚くことに水牛の角による裂傷は動脈と脊髄をそれぞれ一センチ程度かわしていることがわかった。
蛇足ながら、田口にはそれがどうしても偶然の結果に思えず、何らかの見えない力に守られた、と思えた。
1回目の引用はここまで。もうひとつの引用文には、田口先生と老子との邂逅が書かれている。
中国古典との出会いは、ひょんなことからやってきた。まだ、バンコクの病院に入院している時だった。田口の事故を伝え聞いた在留日本人が見舞いにやってきて、ある差し入れを置いて行ったのである。
それが、『老子』だった。その後の田口佳史の人生は、その書物によって根底から変わることになるが、優れた書物というものは、本来そのような力を内包しているのだろう。
田口は絶望感に打ちひしがれ、絶え間なく襲ってくる激痛のなかで、藁にもすがる思いで文字を追った。漢語の原文と読み下し文のみが書かれている本で解説がついていたわけではなかったが、不思議と理解することができた。それまで、読み下し文に親しんでいたわけではない、『老子』についての知識も皆無であった。それなのに、難しい言葉がスラスラと頭に入ってきた。極限の痛みで書物を読めるような状態ではないのに、まるで乾いた土地にみるみる水が沁みこむように田口の頭に老子の思想が入ってきたという。
感覚が剥き出しだったのだろう。生きるよすがを希求する田口の魂と『老子』に書かれてある言霊が融合したのだ。そう考える以外に、ない。
そのようにして、田口は肉体的な後遺症と中国古典思想という、大事故がもたらした二つをもって、日本へ帰ることになるのである。
日本に戻った田口は『荘子』へと読み進め、老荘思想に頭のてっぺんからつま先まで浸かることになる。
以上が引用文である。本書はその後、重度の身体障害になった田口先生がどのような人生をおくることになったのか、そして、中国古典思想はどのような影響を与えてくれたのかなどを綴っている。
言葉というのは不思議だ。生きるためのよすがとなるのだから。以来50年間、田口先生は中国古典思想を血肉とし、社会の第一線で活躍されている。
私は取材の後、田口先生の門下生になった。ずっと「本質を学ぼう」と思っていたが、世のなかにある講義やセミナーの大半は即物的・表面的で、まったく興味が湧かなかった。
祖師ヶ谷大蔵にある玄妙館(田口先生の経営する会社の社屋でもある)で初めて受けた講義が「老子」だった。「ああ、これが求めていたものだ!」と強く感じた。以来、今も田口先生に教えていただいている。
皆さん、ぜひ読んでください。アマゾンで予約販売、始まっています。
(170325 第709回 写真上は『人生に迷ったら老子』の表紙、下は『fooga』第90号の表紙)