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紺碧の将

那波多目功一、引き算の美学

2009.03.04

 『Japanist』のための取材で日本画家・那波多目功一氏を訪ねた。

 昨年開催された茨城県天心記念五浦美術館での展覧会を見て、いたく気に入ってしまい、どうしても『Japanist』創刊号でご紹介したいと考えていたのだが、要望が叶ったというわけだ。

 なぜ那波多目功一か。もちろん、現代の日本画壇において大御所であるのだから誰もとやかく言うはずはないが、作品もさることながら、今までの来歴にも共感してしまったということがあげられる。

 英才教育を受けたわけでもなく、絵が好きでもなく、日本画をやりながら西洋画にかぶれ、50歳過ぎまで事業の傍ら制作を続けてきたという超異端ぶり。

 しかし、「自分らしい絵を描いたらどうですか」という師の言葉にインスパイアされ、西洋画の呪縛から解放されると、途端に自分のスタイルを確立した。その変遷はダイナミックである。

 子どもの頃から絵に興味がなかったのに、なぜ絵の道に入ったかと言えば、日本画家だった父が20年以上にわたって院展で落選を続け、画家仲間から愚弄されていたので自分が入選して仇討ちをしたかったからだという。

 そう思って絵を描き始めたのが、高校1年の時。たいていなら無謀な挑戦という笑い話で終わったはず。

 ところが那波多目少年は院展初出品にして入選、翌年は日展にも入選してしまうという離れ業をやってのけた。父の敵を討ちたいという一心で描いたというから面白い。

 それにしても那波多目氏の父はどのような気持ちで息子の快挙を誉めただろう。自分が20年以上もかかってなしとげられなかったのに、息子はろくに絵の勉強もせずにクリアしてしまったのだから。

 ただ、父親の執念も凄まじかった。その後も院展に出品し続け、ついに入選を果たしたのは息子に遅れること11年後である。「大八車に絵を積んで展覧会に出品できる距離に住みたい」というだけの理由で東京都北区に引っ越したというのだから、まことにあっぱれというほかない。

 さて、那波多目功一氏についての記事は『Japanist』創刊号でご紹介する。一見遠回りに見える氏の人生だが、その実、すべてが無駄になっていないと納得できるはず。

(090304 第88回 写真は制作風景)

 

 

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