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紺碧の将

会津の評価

2009.09.27

 目下のところ、幕末以降の明治近代史が最大の関心事で、いろいろな書物を読みあさっている。特に明治新政府の仕組み作りや具体的な人事、そして外交は今まで知らなかったことばかりで、興奮の連続である。

 どうして今の教育者は、こういう自国の歴史を子どもたちに教えようとしないのか。背景は今までにもさんざん語られてきたが、要するに自虐史観に凝り固まった卑怯な連中の所業にほかならない。そろそろそういう愚か者どもを追放してほしいのだが、残念ながら民主党政権になり、歪んだ思想の教育者がまたぞろ跋扈する状態になってしまった。

 

 ところで、近代史を見ながらさまざまな局面で心にひっかかるのは、旧会津藩だ。幕末から明治にかけての会津藩への評価はきちんと総括すべきテーマであると思う。

 ご存知のように、幕末は佐幕派の急先鋒で、松平容保は孝明天皇からの信任も厚かった。誰も引き受けたがらない京都守護職を受け、新撰組などを使って倒幕派をかたっぱしから消していった。

 ここであらためて確認しなければならないのは、倒幕派=革新的、佐幕派=抵抗勢力という一般的な見方だ。

 これはちがう。当時、開国に前向きだったのは幕府であり、倒幕派は尊皇攘夷を掲げていた。これはどう考えても、幕府側の方が体制改革に熱心だったと言える。もちろん、尊皇攘夷も改革にはちがいなかった。しかし、尊皇はわかるとしても、攘夷はあまりにも時代錯誤だ。しかし、イメージ的には薩長の方が「新しい時代に合った改革者」だといえる。事実、維新後の新政府の要職はほとんどその両藩で占めた。

 この一連の流れが、どうにも腑に落ちないのだ。

 では、開国に積極的だった幕府の頼みの綱だった会津藩はどういう立場にいたのだろうか。

 私は、会津藩と石田三成は似ていると思う。どちらも「義」を体現している。そういう意味では、今の日本人がもっとも再評価すべき対象ではある。会津は徳川氏に、三成は秀頼に忠義を尽くした。

 しかし、一方、「その後」の展望はあったのか、と言えば、「なかった」というのが正しいだろう。

 徳川幕府が続いたとして、いったいどのような国家にしたかったのか、あるいは秀頼が最高権力者であったとして、いったいどのような治世を思い描いていたのか。たぶん、いずれも「なかった」のだが、義を優先し、行動を起こしたという以外ない。

 そこで対比されるのが、大久保利通と徳川家康だ。その両者には歴然と「新しい世の中」の仕組みが念頭にあった。見事なほどにあったのだ。

 もうひとつ言えば、近代史の詳細を見れば見るほど、西郷の功績とはいったい何だったのか、と疑問が募ってくる。第一次長州征伐の時、西郷は、どこでもいいから外国の軍隊を借りて一気に長州を潰そうとするが、「外国の干渉を誘発する」と大久保に諫められている。とても危なっかしい。征韓論を受け入れてもらえなかった後の行動は「投げだし」の最たる例で、陸軍大将という重責のまま、鹿児島へ帰り、日々野山で狩猟にいそしんでいた。明治新政府の混乱を尻目に。

 まあ、このことはいい。話がそれてしまった。会津藩のことであった。

 

 当時、会津と薩摩が最強軍団であったが、薩摩は潮目を見て会津を裏切り、倒幕派の急先鋒になった。しかし、会津は頑として佐幕派であり続けた。このことの「義」は大いに価値があるし、魅力的でもある。

 しかし、結果的に「賊軍」の汚名を着せられ、敗北した。孝明天皇の信任が厚かったのに賊軍? とういうのがわかりにくいが、こういうことの裏に何があったのか、と探るのも歴史の醍醐味であり、現代に生きる知恵になるはずだ。

 そして、あまり知られていないが、西南戦争のおり、あまりに強い薩摩兵に手を焼いた新政府は、青森の果ての不毛の地に追いやった会津の旧士族を呼び寄せ、「怨恨」を利用して薩摩を討たせている。新政府の要職にはもうひとつの仇敵・長州出身の者が多かったが、それでも会津士族は「薩摩憎し」で奮戦した。

 

 で、何が言いたかったというと、大きなビジョンを抱き、それを実現するための方法論をもち、すべてを上から俯瞰して人の集団のバランスをはかって統べる人がいちばん強いということだ。当時の日本にはそういう人物がいたが、今の日本を担う中枢には決定的に欠けている。

 鳩山さん? そんなものあるわけないじゃないか。

(090927 第119回 写真は会津若松城)

 

 

 

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