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紺碧の将

葛藤を抑える、知的な大人のラブストーリー

file.003『マチネの終わりに』平野啓一郎著 毎日新聞出版

 

 男女の恋愛物語といえば、行間に情念が溢れかえっているようなものが多い。しかし、この作品は、理や知が情念を抑えている。そういう意味では、現代版・藤沢周平と言えなくもない。

 主人公は、世界的なクラシックギタリスト・蒔野聡史と国際ジャーナリストとして活躍する小峰洋子、そして蒔野のマネージャー三谷早苗。洋子の父は世界的な映画監督・イェルコ・ソリッチで、何カ国後も操れる理知の人。蒔野は若い頃から天才の名をほしいままにするギタリストという設定に対し、三谷は平凡だが一途な人。蒔野も洋子も40歳前後、いわゆる〝アラフォー〟である。

 フセイン失脚後の混乱期、イラクを取材した洋子は、休暇を利用して日本に帰国し、友人に誘われて蒔野のコンサートに行く。公演の後のパーティーで、蒔野と洋子は出会い、互いに惹かれ合う。

 遠く離れても二人は深く愛し合い、結婚を約束するが、運命のいたずらで、というより、三谷の画策により、二人は行きちがい、洋子はアメリカ人と、蒔野は三谷と結婚してしまう。

 わずか3回しか会ったこともなく、互いの唇しか知らない蒔野と洋子の相手を思う気持ちはじつに真摯で、いささかの打算もない。

 物語の後半、都内での蒔野のコンサートに行こうとした洋子に対し、体を張って食い止めようとするのは、すでに蒔野の妻となっている早苗だった。早苗は、洋子に対し、「来ないでほしい」と懇願する。話の流れから、5年前の〝すれちがい〟をつくった張本人が早苗だと知った洋子は愕然とするが、それでも感情を取り乱すことはしない。あくまでも冷静な洋子に対し、早苗はこう言い放つ。

「正しく生きることが、わたしの人生の目的じゃないんです。わたしの人生の目的は夫なんです」

 情念が言わせた言葉に、洋子は唖然とする。理知が勝る彼女は、自分と蒔野の仲を切り裂いた眼の前の女に対して無力であることを思い知る。

 理知が勝っているのは、芸術家である蒔野も同じだ。妻から真相を打ち明けられるが、終始冷静に聞き、それでも生まれてくる子供を大切にしてほしいと伝える。心に激しい葛藤を抱きながら、懸命に尽くしてくれる妻を憎むということができないのだ。

 そんな二人が「マチネの終わりに」ニューヨークのセントラルパークで再会するというシーンで物語は閉じる。

 この物語はバグダッド、パリ、ニューヨークなどを舞台に、米軍が駐留した後のイラク紛争、ユーゴの民族紛争と崩壊、リーマン・ショックにからむ金融マンの懲りない所業などをからめ、ただの恋愛小説に堕していない。蒔野が演奏するクラシックの曲も多彩で、作者の音楽センスを窺わせる。読み終えると、無重力状態に放り出されたように現実感を失うほど、筆力が際立つ作品だ。

 あっちでもこっちでもキレまくる現代、このように自分を抑えられる人がいるのか。読後感はただただ清々しく、心が洗われたような心地を覚える。

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