神仏習合と宗教対立
灯台下暗し。上野公園内に東照宮があったことを失念していた。
暑い日、ぶらぶらと公園内を歩いていた時、ふと気づいたのだ。
リーフレットによると、1627年、藤堂高虎と天海僧正が家康を祀る神社として寛永寺境内に建立したとある。
まさしく神仏習合である。日光東照宮もそうだが、同じ敷地に神社と寺がある。あらためて考えると、なんとも不思議なことである。
西洋の歴史を見ると、同じキリスト教徒でもカトリックとプロテスタントは激しく弾圧しあっていた。イギリスではプロテスタントのエドワード6世が死去した後に即位したカトリックのメアリ1世は次々とプロテスタント信者を捕らえ、火あぶりの刑に処すなど、凄惨な粛清を行った。それがブラッディ・メアリ(血まみれのメアリ)の名前の由来だが、それほど宗派による対立が激しいということだ(カクテルの名前にするのもどうかと思うが)。
そこへいくと、日本人はおおらかだ。異なる宗派どころか、異なる宗教である。尊いものは形を変え、場所を変えて現れると考え、排撃することはほとんどなかった。この考え方をもってして世界の宗教紛争を解決しようと訴える人もいるが、私はそれは無理だと思う。それでは宗教ではなくなってしまうからだ。
でも、現に日本人ができているじゃないかと言う人もいるだろう。しかし、日本人が特殊だと思わなければいけない。シーア派とスンニ派の人たちに「仲良くしましょう」と言っても、それは土台無理な話である。
対立することを前提で、解決策を話し合わなければならない。黙っていてもわかるという手法では解決できない。とことん、話し合って、落とし所を探る。つまり、透徹したリアリズムが必要というわけ。
※悩めるニンゲンたちに、名ネコ・うーにゃん先生が禅の手ほどきをする「うーにゃん先生流マインドフルネス」連載中。 第27話は「こんな広い世の中に、自分は一人しかいない」。
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(180903 第839回 写真上は上野東照宮の本殿)