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紺碧の将

家康が手本とした、信玄の治世

2019.05.05

 武田信玄の居城「躑躅ヶ崎の館」は、その名が示す通り、戦国大名の居城とは趣を異にする。周囲に堀はあるものの、高く張り巡らした石垣はなく、天守閣もない。まさに「館」である。この躑躅ヶ崎の館から、有名な「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵なり」という言葉を結びつける人が多いが、その言葉を発したのは、北信濃の小笠原長時と塩尻峠で戦い、勝ったあとらしい。晴信(信玄)は捕虜を使って、長時の城だった村井城の再建をする。工事が終わったあと、捕虜たちに向かって言う。ここに居残って武田家の家臣となるもよし、家に帰るもよし、この城の近くで商店を開いてもよし、と。商店を開きたいという者には資金も貸し付けると。

 それまで、捕虜は金山に連行され、重労働をさせられるという噂が広がっていたが、その措置が口伝てに広まり、人が集まってきた。そして市がたち、村井城は城下町となった。

 このとき、信玄はくだんの言葉を呟いたという。つまり、戦うばかりが戦争ではない。人心を掌握し、経済を興すことも重要だと認識していたのだ。

 26カ条からなる甲州法度を作らせたのも信玄だ。領民や家臣の権利・義務、身分の保証、土地、夫役、年貢、婚姻、通貨などに至るまで、ルールを細かく制定した。それによって、領民が安心して暮らすことができるようにしたのだ。法度の最後には、「晴信がこれに背いた場合は、誰でもいいから申し出よ」という旨の一文を添えている。自分も例外ではないと明らかにしたのだ。

 のちに家康が天下を取ると、政治、経済、軍事、産業育成すべてにおいて信玄流を手本としたと『武田信玄』(新田次郎)には書かれている。家康が生涯でたった一度、こてんぱんにやっつけられたのが、信玄との三方ヶ原の戦いだが、それだけに家康は信玄に畏敬の念を抱いていたのにちがいない。

 歴史を紐解くと、現代でも通用する本質がぎっしり詰まっていることがわかる。ぜひ、政治家諸氏は、信玄や家康の治世を学んでほしい。

 

 最後に、苦言を呈したい。全国資本の企業が、各地方の景観を損ねていることを。

 甲府駅の近くに甲府城跡がある。秀吉が家康を抑えるために造った城で、りっぱな城郭が残っている。城郭の上から四方の山々を眺めると、甲斐駒ケ岳方面には東横インと富士急行の大きな看板が、富士山の方角にはやはり東横インの看板が視界を遮っている。ただでさえ周囲に比べて高い建築なのに、さらに屋上に巨大な看板を設置して視界を遮っているのだ。

 その地方の文化や歴史を敬っているのであれば、絶対にそんなことはしないだろう。あるのは、自分だけが目立てばいいというさもしい心。そういう蛮行を止める条例を作れないものか。

 景観は公共の財産である。

 

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「美し人」公式サイトの「美しい日本のことば」をご覧ください。その名のとおり、日本人が忘れてはいけない、文化遺産ともいうべき美しい言葉の数々が紹介されています。

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(190505 第898回 写真上は武田神社(旧躑躅ヶ崎の館)のお堀、下は甲府城跡)

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