寺の建立に一命をかけた大工の話
幸田露伴の孫である青木玉の『小石川の家』を読むと、祖父・露伴は母・幸田文(露伴の娘)に対して、常軌を逸するほど厳しい躾をしていた。あれほど頑迷な父親を持って、幸田文もさぞかし苦労しただろうなと同情を禁じ得ない。
それなのに、幸田文の『しつけ帖』を読むと、恨みがましいことは書かれていない。あの凄まじい躾を親の愛情と受け取れる幸田文さんは、それだけで偉人と呼べる。
露伴の傑作中篇『五重塔』を読むと、なるほどと合点する。あれだけ厳しい躾をするには、相当な体力と気力が要る。ただイライラをぶつけるようなレベルのものではない。そういう人が書いた小説だから、強靭そのものだ。性格のいい人は世にゴマンといるが、これほどの作品を書ける人は滅多にいない。
『五重塔』には、物作りにおける日本人の偏執ともいえるこだわりと矜持が凝縮されている。戦後どのようにして奇跡的な経済復興をなしとげたのか、その秘密の一端がこの小説に盛り込まれていると言っても過言ではない。
谷中感応寺の建立にあたり、誰が棟梁となるか。当時、名工の誉れ高い川越の源太と、その弟子にあたる若い大工の十兵衛が大役を得るためにしのぎを削る。世間はもちろんのこと、十兵衛の妻でさえも十兵衛が恩人の源太を向こうに回して名乗り出るとは不義理なことだと諫める。十兵衛はたしかに腕はたつが”のっそり十兵衛“と渾名されるほどに冴えない存在なのだ。
しかし、十兵衛がいかにその仕事を欲しているか、源太は知りすぎるほどに知っている。一計を案じ、二人で感応寺を建立しようと持ちかける。しかし、意外にも十兵衛の答えは否であった。それでは、と十兵衛が棟梁、自分が副棟梁ではどうかと再び解決策を提案する。それでも十兵衛は拒否する。あまりにも恩知らずな態度に、十兵衛の妻さえもあきれ果てるが、十兵衛の心意気を知った住職の朗圓上人のとりなしにより源太は十兵衛にすべてを譲る。
十兵衛は精魂を傾け、五重塔建立に勤しんだ。
やがて、落成式も間近に迫ったある日、烈しい台風がやってくる。このあたりの描写は、ただただ気迫のこもった文章の連続で、読んでいて呼吸を忘れるがごとくだ。暴風は大地を揺らし、江戸一とも言われた寺や大木を倒壊せしめる。十兵衛は、万が一の場合は死ぬと覚悟を決め、鑿を携えて五重塔の最上階に上がる。
嵐は去った。感応寺は倒れなかったばかりか、釘一本ゆるまず板一枚剥がれずに毅然と美しい姿で建っていた。郎圓上人は二人の大工に敬意を表し、塔の最上階にのぼって「江都の住人十兵衛之を造り、川越源太之を成す」という文字を書きつける。
仕事とはこれほどまでに全身全霊を傾注してするものなのか、命をかけるものなのか。
ひたすら頭が垂れる以外にない。