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紺碧の将

家康の文治政治

2010.06.20

 さて、前回に続き、家康ネタを。

 大久保利通と徳川家康に共通するもの、と言えば、国づくりの緻密な設計図を描いたことと文治政治を押し進めようとしたことである。大久保だけが推進したわけではないが、明治4年の廃藩置県は、まさに文治政治を押し進めようとの英断によってなされたもの。一気に200万人に及ぶ武士階級が失業するという荒療治をするには相当の覚悟がいったはずだ。

 当然、武士階級の不満は激しく(命を張って明治維新を遂げ、戊申戦争を戦い抜いてきた者ばかりだから)、彼らの不満のはけ口として征韓論が浮上してきたことはある意味、自然の流れだった。自らが主導したとは言い難いが、西郷隆盛が征韓論の中心人物にいたことは疑いえない。廟議で敗れ、陸軍大将のまま下野し、鹿児島へ帰ってしまった時、日本は未曾有の危機に陥った。西郷を慕う屈強な部下が100人以上も陸軍を離れてしまったし、江藤新平、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣ら政府の主要メンバーも下野してしまった。

 幕末・明治維新における西郷の活躍は申し分ないが、その功績とそっくり同じくらい「ヘタ」をしたというのが私の西郷評であり、そのため、西郷にはあまり思い入れがない。不平武士のはけ口は征韓論ばかりではあるまい。それを考えるのがリーダーの務めだ。

 一方、そこで踏ん張ったのが大久保だ。彼がいなかったら、まちがいなく当時の日本は列強の餌食となり、植民地化されていたと思う。

 

 家康もまた文治政治に大転換した偉人だ。1603年、征夷大将軍に就き、幕府を開くまで、家康は武将だったが、それ以降は明らかに政治家に徹している。

 家康は政治の要諦をしっかり考え、武断政治から文治政治への転換を図った。本来であれば、武力をもって全国を統一したわけだから、そのまま武断政治を続けた方が楽だろう。

 しかし、それでは民の安寧はない。だから、武士階級からの相当な抵抗を覚悟で家康は文治政治に切り替えた。その後、約270年も争いがないのはただの偶然ではない。家康の設計図がいかに優れていたか、そのことに注目すべきだ。

 では、どのような方法で文治政治を敷いたか、といえば、ここでは語りきれない。要するに、争いがなく、平和な社会にするにはどうすればいいのかを彼は徹底的に考えたということだ。そして、そのメッセージの集大成が日光東照宮である。あれほど平和への祈りが込められた建築物群を他に知らない。

 だから私はNHKなどでの家康像(腹黒い狸オヤジ風)や日光東照宮はゴテゴテだとするステロタイプな見方には反対だ。

(100620 第175 写真は久能山東照宮の家康神廟)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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