日本外交史の頂点を鮮やかに描く
「ねえ、もしもだよ、日本が日露戦争で負けていたら、どうなっていたと思う?」
あるとき、そういう質問を受けた。
「そりゃあ、ロシア人の奴隷になっていたと思うよ。この国に無数のロシア人がやってきて、日本人は混血にさせられて浄化され、数十年でこの国は消えていただろう」
日本人はすべてシベリヤへ強制移住させられ、かわりにロシア人が日本国土に入植した可能性だって否定できない。
万世一系の国体がいまも続いているのは、自然現象の結果ではない。これまでこの国を守ってきた無数の人たちの想像を絶する努力の賜物なのだ。
本書はポーツマス講和条約締結に至る外交交渉をテーマにしたノンフィクション小説である。「ノンフィクション小説」という言葉自体、矛盾があるが、そうとしか言いようがない。史実をベースに、著者の創作を絶妙なバランスで加味している。その結果、主人公の小村寿太郎や交渉相手のウィッテの人物造形が鮮やかに浮かび上がっている。
結果がわかっているとはいえ、交渉の展開に息詰まる。思わず手に力が入り、うっすらと汗をかくほど迫真の描写である。著者の吉村昭は、宮崎県に行って小村の背景を探り、ポーツマスに赴いて講和会議が行われた会議室の空気を体感している。それらが一体となったからこそのリアル感であろう。文章として書くかどうかにかかわらず、現場を知るということは重要だ。
明治維新後、急速に近代国家としての国力をつけていたわが国にも帝国主義の歯牙が襲いかかろうとしていた。つねに南下しようと企むロシアはその筆頭だった。日露戦争は避けることのできない国家の一大事だった。
陸軍は苦戦しながらもロシアを追いつめ、日本海海戦に至ってはバルチック艦隊をほぼ撃滅するという世界の海戦史上にもない一方的な勝利を収めた。日本国民ならずとも、日本が優勢だったと誰もが思った。
しかし、当時の日本にもはや戦争を継続できる戦力や戦費はなかった。あとは、いかに絶好のタイミングで外交決着をつけるかという切迫した状況であった。敵にそういう状況を知らせないため、日本政府は国民にも真実を伝えなかった。
そのような状況下、全権を背負い、アメリカのポーツマスへ赴いた小村寿太郎の心境はいかばかりだったろう。国民は、領土割譲、賠償金の支払いは当然と思っていた。しかし、国民の期待通りに交渉を進めるなどほぼ不可能な状況だったのだ。事実、伊藤博文も全権大使の役を拒否している。
小村はうってつけだったのだ。日英同盟を締結させた功労者でもあり、強気一辺倒だった。日本政府はどこかで妥協してもいいと訓令を与えていたらしいが、小村は常に居丈高であった。ロシアに停戦の意思なくば、いつでも戦争再開してもいいという態度で臨んだ。事実は不可能だと知りながら。
小村とウィッテの駆け引きは延々数十日も続く。並みの外交官であれば、途中で過労死していただろう。事実、小村も条約締結の直後、過労で倒れている。
持てる知力と体力をフルに使って戦勝国として講話を成立させた小村に対する日本国民の怒りはすさまじかった。賠償金をとれなかったからだ。各地の焼き討ち事件はそういう理由から起こった。
横浜から新橋まで汽車でやってくる小村を襲撃するために、大勢の暴徒が新橋駅で待ち受けていた。その時、新橋駅のプラットホームで小村を待ち受けていたのは時の首相・桂太郎と海相・山本権兵衛だった。ふたりは小村の両脇を挟むようにしてプラットホームを歩いた。小村を襲うのなら自分たちも襲えとばかり群衆を睨みつけながら。身を挺して国家を守った男たちの矜持が凝縮された一シーンである。
外国との交渉の機会がほとんどなかった日本に、小村や日清戦争の講和会議で活躍した陸奥宗光がいたことは奇跡としか言いようがない。節目節目において日本は運に恵まれてきたが、元寇襲来時の神風や終戦直後の朝鮮戦争などとともに、明治の後半にかけて偉大な外交官が現れたことは、この国の運の強さを物語っている。もし、陸奥や小村なかりせば、日本は西洋列強に飲み込まれる可能性だってあったはずだ。それほど、彼らはしたたかに交渉し、大きな成果を手に入れた。
あとがきで吉村昭がこう書いている。
――戦争と民衆の係り合いの異様さに関心をいだき、また、講話成立が後の太平洋戦争への起点となっていることにも気づいた。
そう、一人ひとりの善良な国民が集団化し、匿名性を得たとき、戦争を遂行するエネルギー源となることがわかる。事実、この外交勝利を起点に日本人の多くは増長し、孤立の道をひた走ることになる。
小村寿太郎については本サイト「偉大な日本人列伝」第2回、小村寿太郎の項でも触れている。