逃げてゆく愛をどう引き留めるか
シュリンクといえば、映画にもなった『朗読者』を連想する人が多いだろう。15歳の少年と強制収容所で看守をしていた経歴をもつ女性との愛を描いた作品だ。『朗読者』も小欄に選ぶ価値のある作品だが、あえて7つの短編からなる『逃げてゆく愛』を紹介したい。
すべての作品が優れている。とっつきやすいのに一度入り込むや、内奥は広大無辺。時に滑稽さをともないながら、読者を情感の泉に誘い込む。
なぜ、シュリンクにそれが可能なのかといえば、背景にドイツという国に生まれた不条理、矛盾があるからだろう。第二次世界大戦時にナチスが犯したホロコーストの桎梏と、戦勝国の都合で東西ドイツに分けられ、冷戦の終わりとともに統一されたという国家的背景が、そこに住む人々の心理に払拭しがたい影響を与えている。それらが陰影の濃い物語を生んでいる。人間はビッグデータで結論できる生き物ではない。
愛は移ろいやすい。だからこそ、愛の頂点で死を選ぶフランス映画が成り立つともいえる。しかし、不条理や葛藤を抱えながら生きていかなければならないのもまた事実。「逃げてゆく愛」とは、いかにも言い得て妙のネーミングである。
最初の作品「もう一人の男」が秀逸だ。最愛の妻の死後、知らない男から妻宛の手紙が届く。手紙によれば、その男と妻が情交していたことは明らかだった。
彼は、妻がどんな男と関係していたのか知りたくなり、男に近づいていく。そして自分の正体を明かさず男と交流するが、会えば会うほど、なんの価値もない男だとわかる。そして、どうして妻はこんな男とベッドをともにしていたのかと煩悶する。
やがて自分の正体を明かした彼に男が言う。
「わたしと一緒にいるとき、彼女は幸せそうでした。なぜそうだったのかは、言うことができます。わたしがほら吹きだから、ペテン師だから、ろくでなしだったから。あなたのように、能率と公正を追い求める不機嫌な怪物ではなかったからです。わたしは世界を美しく見せたから。あなたはそこにあるものだけを見て、そこに隠されているものを見ようとしません」
ある人が書いた本のタイトルを思い浮かべる。「葉っぱは見えるが、根っこは見えない」。
男は交流のあった女性(主人公の妻)の死を悼む会の席上で、彼女をヴァイオリンの素晴らしいソリストと賛美するが、じつは第2ヴァイオリニストだった。しかし、そんな事実は彼にとって、どうでもいい話だ。いかに彼女の演奏を聴いて痺れたかを熱く語る。夫は妻の魅力を見抜けなかったが、世間からペテン師でほら吹きと思われている男は的確に彼女の魅力を見抜いていたのだ。複眼的に人間を見るということについて、百万言を費やすより雄弁に語っている。これは思想、哲学、宗教にはできない技である。
「甘豌豆」という作品もいい。仕事がうまくいけばいくほど、「ほかに自分に合う仕事がきっとあるはずだ」と思う建築家の男は、自分に欠けているのは絵を描くことだったと気づく。そして自分の作品を売ってくれるハンブルグの画廊の女主人と恋に陥り、妻にそのことを告白する。
二重生活が始まり、画廊の女性との間にも子供ができる。
男はどちらの生活にも愛着があり、一方だけを破綻させることができない。彼は現実から逃れようと、仕事に没頭する。そして仕事はますますうまくいく。
そんな彼は、歯科クリニックを作る計画をもつ若い女性と出会い、彼女を支援するうち、恋に陥る。しかし、それが彼の心を癒やしてくれるのはいっときだけ。彼女との関係も始まり、彼の苦悩はさらに増すことになる。
袋小路に陥った彼がとった手段は、僧服をあつらえ、修道士のふりをして各地を放浪することだった。ある日、悲劇が起きた。僧服が電車の扉に挟まれて引きずられ、下半身不随の身になってしまうのだ。
そんな彼を救うのは、3人の女性である。彼女たちは彼の世話をするかわりに、建築家、画家、クリニックの支援者としての能力を提供してもらう。3番目の女性の発案で、3人が結びついたのだ。
「足るを知らない」男の悲哀と、生きるにしたたかな女性の強さ。読後感は「やはり女にはかなわない」だった。もっとも、車椅子の生活になりながら、政治家になることを夢想する男の生命力もあっぱれではあるが……。
「少女とトカゲ」は、父親が遺した少女とトカゲが描かれた絵に秘密が隠されているという物語。父は戦争中、軍事裁判所で働いており、偽造した証明書を持ったユダヤ人たちを助けるかわりにその絵をもらったことがわかる。彼は(高額であろう)絵をシーツにくるんで砂浜に持って行き、火をつける。炎に包まれる前に、燃えたキャンバス地がめくれあがり、少女とトカゲの絵の下にあった、もう一枚の絵を見る。バルザックの名作『知られざる傑作』を彷彿とさせる。
ほかの5篇も念入りに仕上げられている。人は過去の軛から逃れられるのか、宗教のちがいを乗り越えられるのか、親が生前犯したことをどう受け止めるのかなど、正解のないテーマに向き合っている。余韻の残る物語だ。何度も紐解いてみたい。