詠み手と読み手の高度な交歓
電車のなかで東京新聞の広告を見た。「真実、公正、進歩的」というキャッチフレーズが目についた。自らを「進歩的」と謳う傲慢さがコッケイだ。
進歩的といえば進歩的知識人。左翼思想の人を指すが、いったいなにが進歩的なのか、しばらくわからなかった。
最近、ようやくわかった。(進歩的な)理性によって社会をよくするという考えをもっているということらしく、なんのことはない、自分で自分のことを「進歩的」と言っているにすぎない。
では、どれくらい進歩的かといえば、そういう思想に基づいた共産主義の崩壊を見ても明らかなように、人間は机上の理性で御しきれるような生き物ではない。「貧富の差がない」「平等」を旗印に掲げた国で粛清された人の数は、全部で1億人をくだらないだろう。それほど「進歩的知識人」は進歩的ではなかったのだ。そういうことも顧みず、自らを「進歩的」と称揚する新聞がどういう報道をするか、読まずともわかる。
オルテガは「死者に投票権を」と言ったが、まさに同感だ。もちろん、死者が発言し、投票するはずもないのだが、前の時代に生きた人たちの意見を想像しながら社会のあり方を決めるべきではないか。伝統に対する崇敬とはそういうものだろう。たしかに科学は日進月歩で進歩しているが、それまでの積み重ねがあってこそだということを忘れてはいけない。
いにしえの人たちの凄さといえば、前回の音楽もそうだが、今回のテーマ、和歌もそうだ。
毎日、鎌倉時代の和歌を数首、読んでいるが、あまりにも高度で複雑、情趣にあふれ、かつ卓抜した内容のものばかり。驚くべきはそれだけではない。詠み手も手練れだが、それを当たり前のように読みこなしていた当時の人たちの教養の高さに驚く。つまり、高度な読み手がいてこそ成り立っていた文化なのだ。
後鳥羽院のこんな歌がある。
あはれなりよをうみわたるうらひとのほのかにともすおきのかかりひ
全部ひらがなで書くと読みにくいが、「あはれ」には「哀れ」と地名の「阿波」とが入っている。「よ」には「夜」と「世」が、「うみ」には「倦み」と「海」があり、「わたる」には「渡る」のほかに「海」(わた)があるにちがいない。「うらひと」には「浦人」のほか「古人」が秘められているし、「心」も隠れているだろう。「ほのか」は「仄か」でありながら一方で「帆」を指し示すと同時に他方で「焰」を暗示し、「ともす」は「灯す」「伴」「艫」の3つをかけている。そして「おき」は「沖」「起き」「熾」のほか地名の「隠岐」をわれわれの心に突きつけるだろうし、さらに母音をすこし改めれば「秋」「浮き」「憂き」「息」「生き」のほか地名の「壱岐」もまたかすかに鳴り響いているように思われる、と丸谷才一は『後鳥羽院』に書いている。
なんと重層的な構造であろうか! たったひとつの歌にこれほどの意味が込められているのだ。これを散文で表せば、かなりの文量を必要とするにちがいない。
どうしてこういう歌ができたかといえば、繰り返すが、読み手の高い教養のレベルを前提にしているからだ。本を読まず、文章などほとんど書いたことがなく、話すときもただ頭に浮かんだことをズラズラ並べ、「〜ので〜」でつなぐだけの現代人にはとうていできない芸当だ。前回の大バッハ先生もそうだが、昔の知識人のレベルは神がかりといっていい。
後鳥羽院が出たついでに……。
この御方はじつに不思議である。「新古今和歌集」の実質的な編者であり、序文に寄せた文章の巧みさと見識の高さは比類がない。歌の批評家としても優れていて、当時のスター藤原定家とは相補うライバル関係にあった。もちろん、自身も優れた歌をたくさん詠んでいる。
そんな文人が、こともあろうに鎌倉幕府を倒さんと挙兵に及んだ。それが承久の乱(承久の変)だ。おかげで皇族と武家が戦った唯一の事例として日本史に名を刻むことになった。
本来、錦の御旗に楯突く勢力はいない(はず)。それでも全国の武士たちが後鳥羽院になびかなかったのは、それ相応の理由があったからにちがいない。結果的に挙兵は失敗し、後鳥羽院は隠岐に配流され、そこで生涯を終えることになる。谷崎潤一郎はそれらをもって後鳥羽院の読みの甘さを揶揄しているが、いずれにしても「極めて高い教養」と「ハチャメチャな行動」が相まって、私にとっては興味深いお方なのである。
型にはまっている人は面白みがない。行動が予測できるし、意外性がないからだ。その点、後鳥羽院は「器ならず」である(器ならずとは、器量がないという意味ではなく、ひとつの型にあてはまらない、常人の想像を超える大きな人物という意味)。私は、器ならずの人が好きなのである。
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(200303 第974回 写真上は後鳥羽院)